平気にて「問わずとも知れて居よう、藻西太郎の妻倉子を調《しらべ》るのさ」扨《さて》は目科も細君の議論に打負け、昨夜分るゝまで藻西を無罪と認めしに今朝は早《は》や藻西が其妻に煽起《そゝの》かされて伯父を殺せし者と認め藻西の妻を調べんと思えるなるか、斯《か》く思いて余は少し失望せしに目科は敏《さと》くも余の心を察せし如く「僕が吾が妻の意見を聞くのを君は可笑《おかし》いと思うだろうが、有名なる探偵の中《うち》には下女の意見まで問うた人が有る、今までの経験に由《よ》り僕は何《ど》の様な事件でも一度《ひとたび》は女房の意見を聞いて見る、女房は女の事で随分詰らぬ事も言い殊に其意見が何うかすると昨夜の様に小説じみて来るけれど、僕は又単に事実の方へのみ傾き過る事が有ッて僕の考えと妻の考えを折衷《せっちゅう》すると丁度好い者が出来て来る」と云う是《これ》にて見れば満更細君の意見にのみ心酔したる様にも有らねば余は稍《や》や安心し、今日中に如何ほどの事を見出すならんと夫《それ》のみを楽みて再び又口を開かず、歩み/\て遂に彼の藻西太郎が模造品の店を開けるビビエン街《まち》に到着せり、此町の多く紳士貴婦人の粧飾《そうしょく》品を鬻《ひさ》げる事は兼《かね》てより知る所なれど、心に思いを包みて見渡すときは又|一入《ひとしお》立派にして孰《いず》れの窓に飾れる品も、実に善《ぜん》尽《つく》し美《び》尽《つく》し、買|度《た》き心の起らぬものとては一個《ひとつ》も無し、藻西太郎の妻倉子は此上も無き衣服《なり》蕩楽とか聞きたり斯《かゝ》る町に貧く暮しては嘸《さぞ》かし欲き者のみ多かる可く爾《さ》すれば夫等《それら》の慾に誘《いざな》われ、終《つい》に貧苦に堪え得ずして所天《おっと》に悪事を勧むるにも至りし歟《か》あゝ目科の細君が言し所は余の思いしより能く当《あたれ》り藻西の無罪を証拠立んとする余の目的は全く外《はず》れんとするなる歟、余は此町の麗《うる》わしさに殆ど不平の念を起し藻西が何故身の程をも顧《かえり》みず此町を撰びたるやとまで恨み初めぬ、目科も立留りて暫《しば》し彼方此方《かなたこなた》を眺め居たるが頓《やが》て目指せる家を見出せし如く突々《つか/\》と歩去《あゆみさ》るにぞ藻西の家に入る事かと思いの外、彼は縁も由縁《ゆかり》も無き蝙蝠《こうもり》傘屋に入らんとす「君|夫《それ》は門違いで無いか」と殆ど余の唇頭《くちびる》まで出《いで》たれど茲《こゝ》が目科の誡《いまし》めたる主意ならんと思い返して無言の儘《まゝ》に従い入るに、目科は此店の女主人《じょしゅじん》に向い有らゆる形の傘を出させ夫《それ》も了《いけ》ぬ是も気に叶わずとて半時間ほども素見《ひやか》したる末、終《つい》に明朝見本を届くる故其見本通り新《あらた》に作り貰う事にせんと云いて、此店を起出《たちいで》たり、余は茲《こゝ》に至り初て目科が毎《いつ》もより着飾《きかざり》たる訳を知れり、彼は斯《か》く藻西が家の近辺にて買物を素見《ひやか》しながら店の者に藻西の平生《へいぜい》の行いを聞集めんと思えるなり、身姿《みなり》の立派だけ厚く遇《もて》なさるゝ訳なれば扨《さて》も賢き男なるかな、既に蝙蝠傘屋の女主人なども目科が姿立派なると注文の最《いと》六《むず》かしきを見て是こそは大事の客と思い益々世辞沢山に持掛けながら知《しら》ず識《しら》ず目科の巧みなる言葉に載せられ藻西夫婦の平生の行いに付き己れの知れる事柄だけは惜気も無く話したり、斯《かく》て目科は幾軒と無く又別の店に入り同じ手段にて問掛るに、藻西太郎の捕縛一条は昨夜より此近辺の大問題と為《な》れる事なれば問ざるも先より語り出る程にして中に口重き者あらば実際に少しばかりの買物を為し※[#「研のつくり」、第3水準1−84−17]《そ》を餌に話の端緒《いとぐち》を釣出すなど掛引万々抜目なし、六七軒八九軒|凡《およ》そ十軒ほど素見《ひやか》し廻りたる末、藻西夫婦が事に付き此辺の人が知れるだけの事は残り無く聞集めたるが其大要を摘《つま》めば藻西太郎は此上も無き正直人《しょうじきじん》なり何事ありとも人を殺す如きことは決して無く必ず警察の見込違いにて捕縛せられし者ならん遠からず放免せらるゝは請合なり、彼《か》れ其妻に向いては殆ど柔《やわら》か過るほど柔かにして全く鼻の先にて使われ居し者なり、斯《かく》も妻孝行の男は此近辺に二人と見出し難し、等《とう》の事柄にして殆ど異口同音なり、唯《た》だ彼れの妻お倉に就きては人々の言葉に多少の違い有れど引括《ひきくゝ》れば先ず、お倉は美人なり、身体に似合ぬほど其衣類立派なり、去《さ》れど悪き癖とては少しも無し、身持は極めて真面目なり、亭主に向いては威権《いけん》甚《はなは》だ強過れど爾《さ》ればとて恭《うやま》わざるに非《あら》ず、人附《ひとづき》も甚《はなは》だ好ければ猥《いやら》しき振舞は絶《たえ》て無く、近辺の戯《たわむ》れ男の中《うち》には随分お倉に思いを掛け彼れ是《こ》れ言寄らんとする者あれどお倉は爾《さ》る人と噂を立られたる事も無ければ少したりとも所天《おっと》に嫉妬を起させる如き身持を為《な》したる事なし、妻として充分安心の出来る女なり、など云うだけなり。
是だけ集め得て目科は最《いと》も満足の体《てい》にて「何《ど》うだ君、斯《こう》して集めたのが本統の事実だぜ若《も》し探偵と分る様な風をして来て見たまえ、少し藻西を悪《にく》む者は実際より倍も二倍も悪く言い又|悪《にく》みも好みもせぬ者は成《な》る可《べ》く何事も云うまいとするから本統の事は到底聞き出す事が出来ぬ、さあ之《これ》から愈々《いよ/\》藻西の家に行き細君に直々《じき/\》逢うのだ」と云う、藻西の店は余等《よら》が立てる所より僅か離れしのみにして店先の硝子《がらす》に書きたる「模造品店、藻西太郎」の金文字も古びて稍《や》や黒くなれり目科は余を従え先《ま》ず其店の横手に在る露路の所に立ち暫し店の様子を伺う体なる故、余は気短かく「直《すぐ》に中へ這ろうじゃ無いか」と云う目「いや兎《と》に角細君が店へ出て来る様子を見|度《た》い、夫《それ》まで先ず辛抱したまえ」とて是より凡《およ》そ二十分間ほど立たれど細君は出来《いできた》る様子なし目「是だけ待て出て来ねば此上待つにも及ぶまい、来たまえ、さア行《ゆこ》う」と云い直ちに店の前に進めば十六七なる下女一人、帳場の背後《うしろ》より立来り「何を御覧に入ましょう目「いや買物では無い、外の用事だ、内儀《ないぎ》は内か下女「はいお内です、是へお呼申しましょう」とて、早や奥に入んとするを目科は逸早《いちはや》く引留めて自ら其店に上《のぼ》り、無遠慮に奥の間に進み入る、余も何をか躊躇《ためら》う可《べ》き目科の後に一歩も遅れず引続きて歩み入れば奥の室《ま》と云えるは是れ客室《きゃくま》と居室と寝室《ねま》とを兼たる者にして彼方の隅には脂染《あかじみ》たる布を以て覆える寝台《ねだい》あり、室中何と無く薄暗し、中程には是も古びたる切《きれ》を掛し太き卓子《てえぶる》あり、之を囲める椅子の一個は脚折れて白木の板を打附けあるなど是だけにても内所向《ないしょむき》の豊ならぬは思い遣《や》らる。
去《さ》れど是等《これら》の道具立てに不似合なる逸物《いちもつ》は其汚れたる卓子《てえぶる》に※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]《よ》り白き手に裁判所の呼出状を持ちしまゝ憂いに沈める一美人なり是ぞこれ噂に聞ける藻西太郎の妻倉子なり、倉子の容貌は真に聞きしより立優《たちまさ》りて麗《うるわ》しく、其目其鼻其姿、一点の申分無く、容貌室中に輝くかと疑われ、余は斯《かゝ》る美人が如何でか恐しき罪を計《もくろ》みて我が所天《おっと》に勧めんやと思いたり、殊に其身に纏《まと》えるは愁《うれ》いを表する黒衣にして能《よ》く今日の場合に適し又最も倉子の姿に適したり、倉子の美くしきは生れ附の容貌に在りとは云え衣類の為に一入《ひとしお》引立たる者にして色も其黒きに反映して益々白し余は全く感心し暫《しば》し見惚《みと》るゝのみなりしが、感心の薄らぐと共に却て又一種の疑いを生じたり、此女|愁《うれ》いに沈めるには相違なきも真実愁いに沈みし人が衣類に斯くも注意する暇あるや、倉子が撰びに選びて最も似合しきものを着けしは殊更に其憂いを深く見せ掛る心には非ざるか、目科も内心に幾分か余と同じ疑いを起したること眼《まなこ》の光にて察せらる、倉子は余等が突然に入来るを見、驚きて飛立ちつ、涙に潤む声音にて「貴方がたは何の御用事です」と問う、目科は最《い》と厳格に「はい警察署から送られました、私《わたく》しは其筋の探偵です」と答う探偵との返事を聞き倉子は絶望せし人のごとく元の椅子に沈み込み殆ど泣声《なみだごえ》を洩さんとせしも、思直《おもいなお》してか又|起上《たちあが》り、今度は充分に怒を帯びたる声鋭く「あゝ私しを捕縛するため来たのですね、さあお縛なさいお連なさい、連て行て所天《おっと》とともに牢の中へ投込んで戴きましょう、罪無き所天を殺すなら私しも一緒に殺して下さい、さあ、さあ」と詰寄する、是が真実此女の誠心《まごゝろ》ならば誰か又此女を所天に勧めて其伯父を殺させし者と思わん、唯之だけにて無罪の証拠は充分なり、流石《さすが》の目科も持余《もてあま》して見えたるが此時彼方なる寝台の下にて狗《いぬ》の怖《こわ》らしく※[#「口+曹」、第3水準1−15−16]《うな》るを聞く、是なん兼《かね》て聞きたる藻西太郎の飼犬《かいいぬ》プラトとやら云えるにして今しも女主人が身を危《あやう》しと見、余等二人に噛附んとするなる可《べ》し、倉子は一声に「これ、プラト、怒るのじゃ無いよ、此お二人は恐しい方じゃ無いから」と、叱り附る、叱る心を暁《さとり》てか犬は再び寝台の下に隠れたれども、猶《な》お少しでも女主人の危きを見れば余等二人に飛附ん心と見え暗がりにて見張れる眼《まなこ》、宛《あたか》も二個《ふたつ》の星の如くに光れり、目科は倉子の言葉を機会《しお》に「ほんに吾々は恐しい人じゃ有《あり》ません、斯《こう》して来たのも捕縛など云う恐る可《べ》き目的では無いのです」是だけ聞きて倉子は少し安心の色を現すかと思いしに少しも爾《さ》ること無く、目科の言葉を聞ざりし如くに、我手に持《もて》る呼出状を一寸《ちょっ》と眺めて「今朝裁判所から此通り私しを午後の三時に出頭しろと云て来ましたが、裁判官は虫も殺さぬ私しの所天へ人殺の罪を被《き》せ、夫《それ》で未《ま》だ飽足《あきたら》ず、私しをまで何《ど》うか仕ようと云うのでしょう」目科は今までに余が見し事なきほど厳そかなる調子にて「裁判所は決して貴女の敵では有ません唯|問糺《といたゞ》す丈《だけ》の事です、貴女に問えば若しも藻西太郎の罪の無い証拠が上ろうかと思う為です、私しの来たのも矢張《やはり》唯《た》だ夫《それ》だけの目的で、色々貴女に問うのです、貴女の答え一つに依り嫌疑が益々重くもなり、又全く無罪にも成りますから腹臓《ふくぞう》なく返事するのが肝腎です、さ何《ど》うか腹臓なく」と云《いわ》れて倉子は凡そ一分間が程も其青き眼《まなこ》を挙《あ》げ目科の顔を見詰るのみなりしが、漸《ようや》くにして「さアお問なさい」と云う、あゝ目科は如何なる問を設けて倉子を罟《わな》に落さんとするや、定めし昨夜藻西太郎を問し如く敵の備え無き所を見て巧みに不意の点のみを襲うならんと、余は窃《ひそ》かに堅唾《かたず》を呑みしに彼れは全く打て変り、正面より問進む目「えー、藻西太郎の伯父|梅五郎《ばいごろう》老人の殺されたのは一昨夜の九時から十二時までの間ですが其間丁度藻西太郎は何所《どこ》に居ました何をして」倉子は煩悶に堪えぬ如く両の手を握り〆《し》め「是が本統に、運の尽《つき》と、云う者です」と言掛けて涙に咽《むせ》ぶ目「運の尽とは何《ど》う云う者です、所天《おっと》が何所に何をして居たか、貴女が知らぬ筈《はず》は有りますまい倉「はい」と漸く言《
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