ぬ」目科は成るほどゝ思いしか一語を発せず猶《な》お細君の説を聞く、細君は語を継ぎて「直に行けば猶《ま》だ藻西太郎が捕縛されて間も無い事では有るし、妻の心も落着いて居ぬ間ですから其所《そこ》を附込《つけこ》み問落せば何《ど》の様な事を口走たかも知れません、包み兼《かね》て白状するか、夫《それ》ほどまでに行かずとも貴方の眼《まなこ》で顔色ぐらい読む事が最《いと》易《やす》かッただろうと思いますよ」此口振は云う迄も無く藻西を真の罪人と思い詰ての事なれば余は椅子より飛上り「おや/\奥さん、夫《それ》では藻西太郎を本統の犯罪人と思召《おぼしめ》すのですか、ヱ貴女」細君は不意の横槍《よこやり》に少し驚きし如くなりしも、直に落着て何所《どこ》やら謙遜の様子を帯びつゝ「はい若《も》しや爾《そう》では有るまいかと私しは思います」余は是に対し熱心に藻西太郎が無罪なる旨を弁ぜんとするに細君は余に其暇を与えず、直ちに又言葉を継ぎて「孰《いず》れにしても此犯罪が其妻倉子とやら云う女の心から湧て出たには違い有ません私しは必ず爾《そう》だと思いますよ、若し犯罪が二十有るとすれば其中《そのうち》の左様さ十五までは大抵女の心から出て居ます、夫《それ》は私しの所天《おっと》に聞ても分ります、ねえ貴方」と一寸《ちょい》と目科に念を推して更に「のみならず店番の言立《いいたて》でも大概は察せられるじゃ有ませんか、店番は何と云いました倉子と云う女は大変な美人で、望みも大きく、決して藻西太郎の様な者に満足して居る者で無くて、夫で彼れを鼻の先で使い兼ないと云た様に私しは今聞取りましたが、爾《そう》ですか余「爾です細「して又藻西が家の暮しは何《なん》の様です随分困難だと云いましょう、ですから妻は自分の欲い物も買無《かわな》いし、現在金持の伯父が有ながら此様な貧苦をするのは馬鹿/″\しいと思ッたに違い有りません、既に昨年とかも藻西太郎に勧め伯父から大金を借出させようとした程では有ませんか、最早《もは》や我慢が仕切れ無く成た為としか思われません、夫《それ》を老人が跳附けて一文も貸さ無《なか》ッたゆえ自分の望みは外れて仕舞い老人が憎くなり夫かと云て急に死相《しにそう》な様子も無くあゝも達者では死だ所が自分等の最《も》う歯の抜ける頃だろう間《ま》が悪ければ自分等の方が却《かえっ》て老人に葬《とぶら》いを出して貰う仕儀《しぎ》に成るかも知れぬと斯《こう》思ッた者ですから是が段々と抗《こう》じて来て終《つい》に殺して仕舞う心にも成り間《ま》がな隙がな藻西太郎に説附《ときつ》けて到頭彼れに同意させ果《はて》は手ずから短刀を授けたかも知れません、藻西太郎も初めの中は何《どう》でしたか手を更《か》え品を変えて口説かれるうちにはツイ其気になり、夫《それ》に又商売は暇になる此儘居ては身代限り可愛い女房も食《くわ》し兼る事に成るし、貧苦の恐れと女房の嘆きに心まで暗《くらん》で仕舞い何《ど》うやら斯《こう》やら伯父を殺して其身代を取る気に成たのです藻西の外《ほか》には誰も其老人を殺して利益を得る者は一人も無いと云うたでは有りませんか、若《も》し盗坊《どろぼう》ならば知らぬ事、老人を殺した奴が何一品盗まずに立去たと云う所を見れば盗坊で有りません愈々《いよ/\》藻西に限ります藻西の外に其様な事をする者の有う筈が有ません、妻が必ず彼れに吹込み此罪を犯《おかさ》せたのです」と女の口には珍《めずらし》きほど道理を推して述べ来る、其言葉に順序も有り転末も有り、目科も是に感心せしか「成るほど」とて嘆息せり、余も感心せざるにあらねど余は何分《なにぶん》にも今まで心に集めたる彼れが無罪の廉々《かど/\》を忘れ兼れば「では何《どう》ですか、藻西太郎は伯父を殺して仕舞た後で故々《わざ/\》自分の名前を書附けて置て行く程の馬鹿者ですか」唯此一点が藻西の無罪を指示す最も明かなる証拠にして又最も強き箇条なれば是には目科の細君も必ず怯《ひる》みて閉口するならんと思いしに、細君は少しも怯《ひる》まず却《かえ》ッて余の問を怪む如くに「おや自分の名前を書附たから夫《それ》で馬鹿だと仰有るのですか、私しは馬鹿には迚《とて》も出来ぬ所だろうと思いますよ余「とは又何故です細「何故とて貴方、若し其名前を書附けずに行て仕舞ば一も二も無く自分が疑われるに極ッて居ます、疑いを避けるには大胆に自分の名前を書附ける外は有ません、夫を書附て置たればこそ現に彼の仕業で有るまいと思う人が出て来たでは有ませんか、貴方にしろ爾《そう》でしょう若《も》し何《ど》うしても自分が疑われるに極ッて居るなら其疑いを避る為には充分の度胸を出し自分の仕業とは思われぬ様な事を仕て置きましょう」此の力ある言開《いいひら》きには余も殆ど怯《ひる》まんとす、図らざりき斯《かゝ》る堂々たる大議論が女流の口より出来《いできた》らんとは
 余が怯まんとする色を見て細君は更に又力強き新論鋒《しんろんぽう》を指向《さしむけ》て「夫《それ》で無ければ第一又老人の左の手に血の附《つい》て居たのが分ら無くなッて来ます、若しも貴方の云う通り藻西太郎より外の者が老人を殺し其疑いを藻西に掛ようと思ッて血の文字を書たのなら、其者こそ文字は右の手で書くか左の手で書くかも知《しら》ぬ馬鹿ものと云わねばなりますまい、夫ほどの馬鹿ものが世に有ましょうか、老人の左の手へ血を附けて置けば誰も老人が自分で書いたとは思いません、曲者の目的は外れます、藻西太郎へ疑いを掛けようとして却《かえっ》て彼の疑いを掃い退《のけ》て遣《や》る様な者です、人を殺して後で其血で文字を書附るほど落着た曲者《くせもの》が真逆《まさか》に老人の左の手を右の手とは間違えますまい、ですから藻西の外に曲者が有るとすれば其曲者は決して老人の左の手へ血は附けません必ず何《ど》う見ても老人が自分で書たに違い無いと思われる様に右の手へ附けて置きます、所が之と事かわり、其曲者を私しの云う通り藻西自身だとすれば全く違ッて参ります何《ど》うでも左の手へ血を附《つけ》て置《おか》ねば成らぬのです、何故と仰有《おっしゃ》れば藻西ならば其文字を本統に老人が書たものと認められては大変です、自分の首が無く成ります、何《ど》うしても老人が書たで無く曲者の書たに違い無い様に見せて置ねばなりません、爾《そう》見せるには何うすれば好いのでしょう、即ち血を老人の左の手へ附けて置くに限ります、左の手に附て置けば誰も老人の仕業とは思わず、去《さ》ればとて現に藻西の名を書《かい》て有るから真逆《まさか》に藻西が自分で自分の名を書く程の馬鹿な事を仕様とは猶更《なおさら》思われず、否応《いやおう》なく疑いが外の人へ掛ッて行きます、論より証拠には貴方さえも無理に疑いを外の人へ持て行こうと成《なさ》ッて居るでは有ませんか、先《ま》ア能《よ》く考えて御覧なさい」と是だけ言て息を継ぐ、余が返事の出《いで》ぬを見、細君は少し気の毒と思いし如く「尤《もっと》も女の似而非《えせ》理屈とか云う者でしょう、素《もと》より現場も見ませんで、真逆当りは仕ませんけれど既に店番が藻西を見たと云い其上|連《つれ》て居た犬は藻西の外の者へは馴染《なじま》ぬとも云たのでしょう夫《それ》や是《これ》や考えて見ると藻西と云う方が何《ど》うしても近いかと思われます、詰《つま》り藻西は何《なん》でしょう随分智慧の利《き》く男で、通例の手段では倒底助からぬと思ッたからずッと通越して此様な工夫を定めたのでしょう」細君の言葉の調子が斯《か》く大《おおい》に柔かくなるに連れ余の疑いも亦再び芽を吹き「爾《そう》すると藻西が自分で白状したのは何《ど》う云う者でしょう細「夫《それ》が即ち彼れの工夫の一部分では有ませんか余「だッて貴女、彼れは老人が何で殺されたか夫《それ》さえ知ぬ程ですもの細「知ぬ事は有ますまい、貴方がたが鎌を掛たから夫《それ》を幸いに益々知らぬ振《ふり》をするのです、此方から短銃《ぴすとる》と言た時に直様《すぐさま》はい其|短銃《ぴすとる》は云々《しか/″\》と答えたのが益々彼れの手管《てくだ》ですわ、詰《つま》り彼れは丁度計略の裏を書《かい》て居るのです、其時若し彼れがいえ短銃《ぴすとる》では有ません短剣でしたと答えたなら貴方がたも之ほどまで彼れを無罪とは思わず彼れの工夫が破れて仕舞いましょう、貴方がたの見て驚く所が彼れの利口な所だと私しは思いますが」
 余は猶《な》お何とやら腑に落ぬ所あれば更に議論を進めんとするに、目科は横合《よこあい》より細君に声を掛け「これ/\、和女《そなた》は今夜|何《ど》うかして居るよ、毎《いつ》もと違い余り小説じみた事を云う」と制し更に余が方《かた》に向来《むききた》りて「今夜は最《も》う置きたまえ、僕は既に眠くなッた。其代り明早朝に又君を誘うから」
 実に目科は多年経験を積みし為め事に掛れば熱心に働き通し、其代り又|一《ひとた》び心を休めんと決すれば、其休むる時間|丈《だ》け全く其事を忘れ尽して他の事を打楽しむ癖を生じたる如くなるも余には仲々其真似出来ず「然《さ》らば」とて夫婦に分れを告げ居間に帰りて寝て後も唯《たゞ》此事件のみ気に掛り眠らんとして眠り得ず、「あゝ藻西太郎は罪無きに相違なし」と呟き「罪なき者が何故に自ら白状したるや」と怪み、胸に此二個の疑団《ぎだん》闘い、微睡《まどろ》みもせず夜を明しぬ


          第八回(太郎の妻)

 読者よ、初めて此犯罪に疑いを容《い》れたるは実に余なり、余が老人の死骸を見て其顔に苦痛の体《てい》なきと其右の手に血の痕なきを知りてより斯《かく》は疑い初めたる者なれば余は如何にしても藻西太郎の無罪なるを証拠立てねばならず、のみならず現に無罪と思う者が裁判官の過ちや其外の事情の為め人殺しの罪に落さるゝを見、知ぬ顔にて過さる可《べ》きや、余は此事件の真実の転末を知んが為には身を捨《すて》るも可なり職業を捨《すつ》るも惜からずとまでに思いたり、思い/\て夜を明し藻西太郎は確に無罪なりと思い詰《つむ》るに至りしかど又|翻《ひるが》えりて目科の細君が言たる所を考え見れば、余が無罪の証拠と見認《みと》むる者は悉《こと/″\》く有罪の証拠なり細君の言葉は仮令《たと》い目科の評せし如く幾分か「小説じみ」たるに相違無しとするも道理に叶わぬ所とては少しも無し、成るほど藻西太郎は其妻にほだされて伯父を殺すの事情充分あり「之加《しか》も自ら殺せしと白状したり」愈々《いよ/\》彼れが殺せしとすれば成るほど其疑を免るゝ奇策として我名を記《しる》すの外なきなり、我名を記すも老人の右の手を以て記す可からず、唯左の手を以て記すの一方なり、余の疑いは実に粉々に打砕かれたるに同じ、余は殆ど返す可き言葉を知ず、あゝ余は竟《つい》に此詮索を廃す可きか、余の過ちを自認す可きか。
 余が殆ど思い屈したる折しも昨夜の約束を忘れずして目科は余の室に入来れり、彼れは余の如く細君の言葉には感服せざるか思《おもい》屈《くっ》する体《てい》更に無く、却《かえっ》て顔色も昨夜より晴渡れり、彼れ第一に口を開き「今日も君一緒に行くが其代り今から誡《いまし》めて置く事が有る僕が何《ど》の様な事を仕ようと決して口を出し給うな、若《も》し僕に口をきゝ度《た》いなら誰も外に人の居無い本統の差向いに成《なっ》た時を見て言給え」余は素《もと》より自ら我が智識我が経験の目科に及ばざるを知れば此誡めを不平には思わず唯《たゞ》再び此詮索に取掛るの嬉しさに一も二も無く承諾して早速に家を出《いで》しが、目科の今日の打扮《いでたち》は毎《いつ》もより遙か立派にして殊に時計其他の持物も殆ど贅沢の限りを尽し何《ど》う見ても衣服蕩楽《なりどうらく》、持物蕩楽なる金満家の主人にして若し小間物屋の店の者にでも見せたらば斯《かゝ》る紳士を得意にし度《た》しと必ず涎《よだれ》を流すならん、何故《なにゆえ》に斯《かく》も立派に出立《いでたち》しや、余は不審の思いを為し、歩みながらも「君今日は何《ど》の様な方針を取る積りか」と問しに目科は
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