る番「私しは役目通り今まで彼れを窺《のぞ》いて居ましたが、彼れ疾《と》くに後悔を初めたと見え泣て居ますよ、宛《まる》で身体の大きい赤坊です、声を放ッて泣て居ます目「何《ど》れ行て見よう、だが己《おれ》の逢て居る間、外で物音をさせては了《いけ》ないよ」と注意を与え目科は先ず抜足して牢の所に寄り窃《ひそ》かに内を窺い見る、余も其例に従うに成る程囚人藻西太郎は寝台《ねだい》の上に身を投げて俯伏《うつぶ》せしまゝ牢番の言し如く泣沈める体《てい》にして折々に肩の動くは泣じゃくりの為なるべく又時としては我身の上の恐ろしさに堪えぬ如く総身《そうしん》を震わせる事あり、見るだけにても気の毒なり、良《やゝ》ありて目科は牢の戸を開かせつ余を引連れて内に入る、藻西太郎は泣止みて起直り、寝台の上に身を置きしまゝ目科の顔を仰ぎ見るさま、痛く恐を帯びたるか爾《さ》なくば気抜せし者なり、余は目科の背後《うしろ》より彼れの人と為《な》りを倩々《つく/″\》見るに歳は三十五より八の間なる可《べ》く背は並よりも寧《むし》ろ高く肩広くして首短し、執《いず》れにしても美男子と云わるゝ男には非ず、美男子を遙か離れ、強き疱痘《ほうそう》の痕《あと》ありて顔の形痛く損し其|額《ひたい》高きに過ぎ其鼻長きに過るなどは余ほど羊に近寄りたる者とも云う可し、去《さ》れど其《その》眼《まなこ》は穏和げにして歯は白く且《かつ》揃いたり。
目科は牢に入るよりも大《おおい》に彼れが気を引立んとする如く慣々《なれ/\》しき調子にて「おやおや何うしたと云うのだ、其様に鬱《ふさ》いでばかり居ては仕様が無い」と云い彼が返事を待つ如く言葉を停めしも彼れ更に返事せざれば目科は猶《な》お進み「え、奮発するさ奮発を、これさこれ藻西さんお前も男じゃ無いか、私《わし》が若《も》しお前なら決して其様に凋《しお》れては居無いよ、男の気象《きしょう》を見せるのは此様な時だろう、何でお前は奮発せぬ、茲《こゝ》で一つ我身に覚えの無い事を知せ判事や警察官に一泡《ひとあわ》吹せて呉《くれ》ようじゃ無いか」実に目科は巧なり彼れが言葉には筆に尽せぬ力あり妙に人の心を動かすに足る、余若し罪人ならば唯《たゞ》彼れの一言に奮い起き仮令《たと》い何れほどの疑いに囲まれようとも其の疑いを蹴散して我身の潔白を知せ呉れんと励み立つ所なり、爾《さ》は云え目科は気も気に非ず、此一言実に藻西太郎の罪あるや無きやを探り尽す試験なれば胸の中《うち》如何《いか》ほどか騒立《さわだ》つやらん、藻西太郎は意外にも、無愛想なる調子にて「爾《そう》仰有《おっしゃ》ッても仕方が有りません、自分で殺した者は到底隠し切《きれ》ませんから」と答う、此返事に余は殆ど腰抜すほど驚きたり、あゝ当人が此口調では最早や疑いを容《い》るゝ余地も無し問うも無益、疑うは猶《な》お駄目なり、爾れど目科は猶お挫《くじ》けず「何だとお前が殺した、本統か、本統にお前か」藻西太郎は忽然《こつぜん》として、宛《あたか》も狂人が其狂気の発したるとき、将《まさ》に暴れんとして起《たつ》が如く、怒れる眼《まなこ》に朱を濺《そゝ》ぎ口角に泡を吹きて立上り「私しです、はい私しです、私し一人《いちにん》で殺しました、全体何度同じ事を白状すれば好いのですか、今し方も判事が来て、同じ事を問うたから何も彼も白状しました、ヘイ其白状に調印まで済せました、此上貴方は何を白状させ度《た》くて来たのですか、夫とも私が泣いて居るから信切《しんせつ》に夫を慰めようとて来て下さッたのかも知ませんが、今と為《なっ》ては恐しくも有ません、首切台は知て居ます、はい私しは人を殺したから其罪で殺されるのです」彼れの言条《いいじょう》は愈々《いよ/\》出《いで》て愈々明白なり、流石《さすが》の目科も絶望し、今まで熱心に握み居たる此事件も殆ど見限りて捨んかと思い初めし様子なりしが、空箱を一たび鼻に当て忽《たちま》ち勇気を取留し如く、彼の心を知る余にさえも絶望の色を見せぬうち早くも又元に復《かえ》り「爾《そう》か、本統にお前が殺したのか、夫にしても猶《ま》だ首切台ノ殺されるノと其様な事を云う時では無いよ、裁判と云う者は少しの証拠で人を疑うと同じ事で其代り又少しでも証拠の足らぬ所が有れば其罪を疑うて容易には罪に落さぬ。好いか、此度の事件でもお前の白状は白状だ、夫にしてもお前の白状だけでは足りぬ、猶《な》お其外の事柄を能《よ》く調て愈々《いよ/\》お前に相違ないと見込が附けば其時初めて罪に落す、若しお前の白状だけで外の証拠に疑わしい所が有れば情状酌量《じょう/\しゃくりょう》と云て罪を軽める事も有り又証拠不充分と云て其儘《そのまゝ》許す事も有る」と殆《ほとん》ど噛《かん》で食《ふく》めぬばかり諄々《じゅん/\》と説諭《ときさと》すに罪人は心の中に得も云えぬ苦しみを感じ右《と》せんか左《かく》答えんかと独り胸の中に闘いて言葉には得出《えいだ》さぬ如く、空しく長き※[#「口+曹」、第3水準1−15−16]《うめ》き声を洩すのみ、此有様|抑《そ》も如何ように見て取る可きか、目科は隙《すか》さず突《つい》て入り「就《つい》て問度《といた》い事が有る、お前は殺すほどあの伯父が憎かッたのか藻「なアに少しも憎くは有ません目「では何故殺した藻「伯父の身代《しんだい》が欲いから殺しました、此頃は商買《しょうばい》が不景気で日々《にちにち》苦しくなるばかりです、夫は同業に聞ても分ります、幸い伯父は金持ですけれど生て居る中は一文でも貸て呉れず、死《しに》さえすれば其身代が独《ひとり》で私しへ転がり込むと思いまして、目「分ッた/\、夫でお前は殺しても露見しまいと思ッたのか藻「はい爾《そう》思いました」あゝ目科は何故《なにゆえ》に斯《かく》も湿濃《しつこ》く問うなるや、余は必ず深き思惑の有る可しと疑い初《そ》めしに果せるかな彼れ忽《たちま》ち語調を変じ「夫は爾《そう》としてお前あの、伯父を殺した短銃《ぴすとる》は何所《どこ》で買《かっ》た」余は藻西が何と答うるにやと殆ど気遣《きづかわ》しさに堪えず手に汗を握れども藻西は驚きもせず怪みもせず「なに買たんじゃ有ません余程前から持て居たのです」と答う目「殺した後で其短銃を何うしたか藻「え、別に何うもしません、左様さ投捨て仕舞いました、外へ出てから目「では誰か拾た者があろう、好し/\私《わし》が能《よ》く探させて見よう」読者よ目科は奥の奥まで探り詰ん為め故《ことさら》に斯《かゝ》る偽《いつわ》りの問を設けて、試みながらも其色を露現《あら》わさず相も変らぬ静かなる顔付なり、稍《やゝ》ありて又問掛け「一つ合点の行かぬ事は全体犬を連て行くと云う事は無いよ、あれが大変な露見の本《もと》に成《なっ》た、あの様な者は内へ置て自分一人で行き相《そう》な者だッたのに」此問は何の意にて発せしや余は合点し得ざれども何故か藻西太郎は真実に打驚き「え、え、犬、犬を目「爾よ、プラトと云う黒犬をさ、店番が慥《たしか》にプラトを認めたと云う事だ」此語を聞きて藻西太郎の驚きは殆ど譬《たと》うるに者も無し、彼れ驚きしか怒りしか歯を噛み拳《こぶし》を握りて立ち、何事をか言出さんとする如く唇|屡々《しば/\》動きたるも漸《ようや》くに我心を推鎮《おししず》め「え、え」と悔しげなる声を発して其儘寝台に尻餠《しりもち》搗《つ》き「えゝ、是でさえ最《も》う充分の苦みだのに此上、此上、何事も問うて下さるな、最う何《ど》う有ても返事しません」断乎《だんこ》として言放ち再び口を開かん様子も見えず、目科も此上問うの益なきを見て取りしか達《たっ》て推問《おしと》わんともせず、是にて藻西太郎を残し余と共に牢を出で、階《はしご》を下りて再び鉄の門を抜け、廊下を潜り庭を過《よぎ》り、余も彼れも、無言の儘にて戸表《おもて》へと立出しが余は茲《こゝ》に至りて我慢も仕切れず、目科の腕に手を掛けて問う「是で君は何と思う、え君、彼れ自分で殺したと白状して居るけれど伯父が何の刃物で殺されたか夫さえも知ぬじゃ無いか、君が短銃《ぴすとる》の問は実に甘《うま》かッたよ、彼は易々《やす/\》と其計略に落ちた、今度こそ彼れの無罪が明々白々と云う者だ、若し彼れが自分で殺したなら、なに短銃《ぴすとる》で無い短剣だッたと云う筈だのに」目科は簡単に「左様さ」と答えしが更に又「併《しか》し何方《どちら》とも云れぬよ罪人には随分思いの外に狂言の上手な奴が有て、判事や探偵を手球《てだま》に取るから余「だッて君目「いや/\僕は今まで色々な奴に出会《でっくわ》したゞけ容易には少しの事を信ぜぬて、併《しか》し今日の詮索は先ず是だけで沢山だ、是から帰て僕の室へ来、何か一口|喫《た》べ給え、此後の詮索は明日又朝から掛るとしよう」
第七回(馬鹿か、否《いな》)
是より目科が猶も余を背後《うしろ》に従え我宿に帰着き我室の戸を叩きしは夜も早や十時過なりき、戸を開きて出迎える細君は待兼し風情にて所天《おっと》の首にすがり附き情深きキスを移して「あゝ到頭《とうとう》お帰になりましたね今夜は何だか気に掛りまして」と言掛けて余が目科の背後《うしろ》に在るを見、忽《たちま》ち一歩引下り「おゝ御一緒に、今まで珈琲館に居《いら》しッたのですか、私しは又用事で外へお廻りに成たかと思いました、遊《あそん》でお帰り成《なさ》るには余り遅過るじゃ有ませんか」帰りの遅きは用事の為とのみ思いたるに余と一緒なるを見て扨《さて》は遊びの為なりしかと疑い初めたる者と知らる、目科は隙《すき》も有らせず「なに珈琲館を出たのは六時頃だッたがバチグノールに人殺《ひとごろし》が有たので隣室の方と共に其方《そのほう》へ廻ッて夫故《それゆえ》此通《このとお》り」と言開く、細君は顔色にて偽りならぬを悟りし乎《か》、調子を変て「おや爾《そう》」と呟けり、此短き「おや爾」には深き意味ある如く聞ゆ「おや/\、探偵を勤めて居ることを隣の方にまで知せたのですか」と云うに同じかる可《べ》し、目科は直ちに其意を汲《く》み「隣の方と一緒でも構わぬよ、探偵を勤めるが何も恥では有るまいし」と言い掛るを細君が「なに爾では有りませんよ」と鎮《しずめ》んとすれど耳に入れず「成る程世間には探偵を忌嫌《いみきら》う間違ッた人も有《あろ》うけれど一日でも此|巴里《ぱり》に探偵が無かッて見るが好い悪人が跋扈《ばっこ》して巴里中の人は落々《おち/\》眠る事も出来ぬからさ、私は探偵の職業を誰に聞せても恥と思わぬ」とて喋々《ちょう/\》言張んとす、細君は斯《かゝ》る瞋《いか》りに慣たりと見え一言も口をはさまず、目科も頓《やが》て我言葉の過たるを悟りし如くがらり打解て打笑い「いや其様な事は何うでも好い、夫より先《ま》ア、二人とも空腹に堪えぬから何なりと喫《たべ》るものを」と云う、不意の食事は此職業には有りがちなれば細君は騒ぎもせず庖《くりや》の方《かた》に退きて五分間と経《へ》ぬうち早や冷肉の膳を持出で二人の前に供したれば、二人は無言《むげん》の儘忙わしく喫《た》べ初めしも、喫て先ず脾《ひ》だるさの鉾先だけ収まるや徐々《そろ/\》と話に掛り、目科は今宵の一条を洩さず細君に語り聞かす流石探偵の妻だけに細君も素人臭き聞手と違い時々不審など質問する孰《いず》れも能《よ》く炙所《きゅうしょ》に当れば余は殆ど感心し「此の聞具合では必ず多少の意見も有るだろう」と窃《ひそか》に思待《おもいま》つうちに、漸《ようや》く目科の話が終れば果せるかな細君は第一に「貴方は失念《ぬかっ》た事を仕ましたね」と云う、目科は宛《あたか》も今までの経験にて細君の意見の侮《あなど》り難きを知れる如く、此言葉に多少の重みを置き「失念《ぬかっ》た事とは何が細「現場を立去ッてから直《すぐ》に牢屋へ行くと云う事は有りませんよ目「だッて牢屋には肝腎《かんじん》の藻西太郎が居るだろうじゃ無いか細「でも貴方、藻西に逢た所で別に利益は無《なか》ッたでしょう、夫《それ》よりは何故直に藻西太郎の宅へ行き其《その》妻《さい》を尋問しませ
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