、爾々《そう/\》夫ばかりでは有りませんよ昨年も老人とお倉さんと喧嘩をした事が有ます、お倉さんは亭主《やど》に或《あ》る飾屋《かざりみせ》の株を買せるからと云い老人に大変な無心を言て来たのです、すると老人は一も二も無く跳附《はねつけ》て、己《おれ》が死んだ後では己の金を藻西太郎が何《ど》の様に仕ようと勝手だけれど兎《と》角も己の稼ぎ溜た金だから生て居る間は己の勝手にせねば成らぬ、一文でも人に貸して使わせる事は出来ぬなんぞと言ました」読者よ余の考えにては此点こそ最も大切の所なれば目科が充分に問詰るならんと思いしに彼れ意外にも達《たっ》て問返さん様子なく余が目配《めくばせ》するも知らぬ顔にて更に次の問題に移り「したが老人の殺されて居る所は何《ど》うして見出した女「何うしてとは、夫は私しが見出したのですよ、先《ま》あ何うでしょうお聞下さい私しは毎《いつ》もの通り十二時を合図に膳を持て老人の室まで来、兼《かね》て入口の合鍵を渡されて居る者ですから何気なく戸を開て、内へ這入《はいっ》て見ますると、可哀相に、此有様です」と言来《いいきた》りて老女は真実|憫《あわ》れに堪えぬ如く声を啜《すゝ》りて泣出せしかば目科は之を慰めて「いやお前が爾《そう》まで悲むは尤もだが、最《も》う時が無い事で有るし先ず悲みを堪《こら》えて――女「はい堪えます、堪えます目「私《わし》の問う事に返事を仕て、さゝ、夫から何うした、其老人の死骸を見て其時お前は何と思ッた女「何と思わ無くとも分ッて居ます、甥の畜生が伯父の死《しぬ》るのを待兼て早く其身代を自分の物にする気になり殺したに極て居ます、私しは皆に爾《そう》云て遣《やり》ました目「併《しか》し、何故其甥が殺したに極て居る人を人殺しなどゝ云うは実に容易の事で無く其人を首切台へ推上《おしのぼ》すも同じ事だ、少し位は疑ッても容易に口にまで出して言触す事の出来る者で無い、夫くらいの事はお前も知て居るだろう女「だッて貴方《あなた》、甥で無くて誰が殺しましょう、藻西太郎は昨夜老人に逢《あい》に来て、帰て行たのは大方《おおかた》夜の十二時でした、毎《いつ》も来れば這入がけと帰掛《かえりがけ》とに大抵私しへ声を掛る人ですのに昨夜に限り来た時にも帰る時にも私しへ一言の挨拶をせぬから私しは変だと思て居ましたよ、何しろ昨夜其甥が帰てから今朝私しが死骸を見出した時まで誰も老人の室へ這入ッた者の無いのは確かです夫は私しが受合います」
 読者よ是だけの証言を聞き余は驚かざる可《べ》き乎《か》、余は実に仰天したり、余は此時猶お年も若く経験とても積ざれば、最早や藻西太郎の犯罪は警察官の云し如く真に明々白々にて此上問うだけ無益なりと思いたり去れど目科は流石《さすが》経験に富るだけ、且《か》つは彼れ如何に口重き証人にも其腹の中《うち》に在るだけを充分|吐尽《はきつく》させる秘術を知れば猶《な》お失望の様子も無く宛《あたか》も独言《ひとりごと》を云う如き調子にて「成《な》る程昨夜藻西太郎が老人に逢《あい》に来た事は最《も》う確だな女「確かですとも、是ほど確かな事は有ません目「するとお前は藻西を見たのだね、其顔を確《しっか》り認《みとめ》たのだね女「いえ少しお待なさい、見たと云て顔を見た訳では有ません廊下へ行く所を見たのです、夫も彼れ急いで歩きましたから、何でも私に目認《みと》められまいと思う様に本統《ほんとう》に憎いじゃ有ませんか廊下の燈明《あかり》が充分で無いのを幸いちょい/\と早足に通過《とおりすぎ》ました」余は此一|節《ふし》を聞きて思わず椅子より飛離れたり、是れ実に軽々しく聞過し難き所ならん、余は殆ど堪え兼て傍《かたわら》より問を発し「若《も》し夫だけの事ならばお前が確に藻西太郎と認めたとは云われぬじゃ無いか」老女は最《いと》怪《あやし》げに余を頭の頂辺《てっぺん》より足の先まで隈《くま》なく見終り「なに貴方、仮令《たとい》当人の顔は見ずとも連て居る犬を確に見ましたもの、犬は藻西に連られて来る度《たび》に私しが可愛がッて遣《や》りますから昨夜も私しの室へ来たのです、だから私しが余物《あまりもの》を遣《やろ》うとして居ると丁度《ちょうど》其時藻西が階段の所から口笛で呼ましたから犬は泡食《あわくっ》て三階へ馳上《はせあが》ッて仕舞ました」此返事を目科は何と聞きたるにや余は彼れの顔色を読まんとするに、彼れ例の空箱にて之を避《よ》け「して藻西の犬とは何《ど》の様な犬だ」と老女に問う女「はい前額《ひたい》に少し白い毛が有るばかりで其外は真黒な番犬《ばんいぬ》ですよ、名前はプラトと云ましてね、大層気むずかしい犬なんです、知ぬ人には誰にでも※[#「口+曹」、第3水準1−15−16]《うな》りますが唯《たゞ》私しには時々食う者を貰う為め少しばかり穏《おだや》かです、藻西太郎より外の者の云う事は決して聴きません」是《こゝ》だけ聞きて目科は「夫で好し最《も》う聞く事は無いからお前下るが好い」と云い老女が外の戸まで立去るを看送《みおく》り済《すま》し更に余が方《かた》に打向いて「最《も》う何《ど》うしても藻西太郎の仕業《しわざ》と認める外は無い」と嘆息《たんそく》せり。
 目科が猶お老女を尋問し居たるうちに、先刻判事が向いに遣《やり》しと云いたる医官二名出張し来りて此時までも共々《とも/″\》に手を取りて老人の死骸を検《あらた》め居たれば余は一方に気の揉める中《うち》にも又一方に医官が検査の結果|如何《いかゞ》と殆《ほとん》ど心配の思いに堪えず、凡《およ》そ医師|二人《ににん》以上立会うときは十の場合が七八《なゝやつ》まで銘々見込を異にする者なれば若《も》し此場合に於ても二人其見る所同じからず、縦《よ》し一方が余の見立通り老人は唯一突にて痛《いたみ》を感ずる間も無きうちに事切れたりと見定むるとも其一方が然らずと云わば何とせん、青《あお》書生の余が言葉は斯《かゝ》る医官の証言に向いては少しの重みも有る可きに非ず、斯《かく》思いて余は二人の医官を見較ぶるに一方は瘠《や》せて背高く一方は肥《こえ》て背低し斯《かく》も似寄たる所少き二人の医官が同様の見立を為すは殆ど望み難《がた》き所なれば猶お彼等の言葉を聞かぬうちより既《すで》に失望し居たる所、彼等は頓《やが》て検査し終り、今まで居残れる警察長に向い不思議にも同一の報告を為《な》したり、同一の報告とは他ならず梅五郎老人は唯一突にて即死せし者なれば従ッて血の文字は老人の書し者に非ずと云うに在り。
 余は意外にも二人の医官が二人ながら余の意見と同一の報告を為せしを見、ほッと息して目科に向えば目科は益々怪しみて決し兼たる如く「フム老人が書たで無いとすれば誰が書たのだろう、藻西太郎か、藻西太郎が自分で自分の名を書附て行くと云う事は決して無い、無い/\何うしても無い、自分で自分の名を書くとは余り馬鹿げ過て居る」
 余は此言葉に何の批評をも加えねど、己が役目の漸《ようや》く終り、やッと晩餐に有附く可き時の来りしを歓びながら出《いで》て行く彼の警察長は目科の言葉を小耳に挟み彼れをからかうも一興と思いし如く「当人が既に殺しましたと白状した後で他人の君が六《むず》かしく道理を附け独り六かしがッて居るのは夫こそ余り馬鹿さが過るじゃ無いか」目科は怒りもせず「左様《さよう》、馬鹿さが過るかも知れぬ、事に由ると僕が全くの馬鹿かも知れぬ、けれども今に判然と合点の行く時が来るだろうよ」警察長は聞流して帰り去り、目科も亦《また》言流して余に向い出し抜《ぬけ》に「さア是から二人で警察本署へ行き、捕われて居る藻西太郎に逢て見よう」


          第六回(犬と短銃《ぴすとる》)

 藻西太郎に逢《あっ》て見んとは素《もと》より余の願う所ろ何かは以て躊躇《ためら》う可《べ》き、早速目科に従いて又もや此家を走り出《いで》たり、余と云い目科と云い共に晩餐|前《ぜん》なれど唯《たゞ》此事件に心を奪われ全く饑《うえ》を打忘れて自ら饑たりとも思わず、只管《ひたすら》走りて大通りに出で茲《こゝ》にて又馬車に飛乗りゼルサレム街に在《あ》る警察本署を推《さ》して急《いそが》せたり目科は馬車の中にても心|一方《ひとかた》ならず騒ぐと見え、引切《ひっきり》なしに空《から》の煙草を嚊《か》ぐ真似し時々は「何《ど》うしても見出せねば、爾《そう》だ何うしても見出して呉れる」と打呟く声を洩す、余は目科に向いて馬車の隅にすくみしまゝ一つは我が胸に浮ぶ様々の想像を吟味《ぎんみ》するに急《いそが》わしく一は又目科の様子に気を附けるが忙わしさに一語だも発するひま無し、目科は又暫し考えし末、忽《たちま》ち衣嚢《かくし》を探りて先刻のコロップを取出し宛《あたか》も初めて胡桃《くるみ》を得たる小猿が其の剥方《むきかた》を知ずして空《むなし》く指先にて拈《ひね》り廻す如くに其栓を拈り廻して「何にしても此青い封蝋が大変な手掛りだ何うかして看破《みやぶ》らねば」との声を洩せり、斯《かく》て長き間走りし末、馬車は終《つい》に警察本署に達し其門前にて余等《よら》二人を卸《おろ》したり、日頃ならば警察の庭と聞くのみも先ず身震する方にして仲々足踏入る心は出《いで》ねど今は勇み進みて目科の後に従い入るのみかは常に爪弾《つまはじき》せし探偵|吏《り》の、良民社会に対して容易ならぬ恩人なるを知り我が前に行く目科の身が急に重々しさを増し来《きた》り、其|背長《せたけ》さえ七八寸も延しかと疑わる、即《やが》て其広き庭より廊下へ進み入り曲り曲りて但有《とあ》る小室《しょうしつ》の前に出《いず》れば中《うち》には二三の残り員《いん》、卓子《てえぶる》を囲みて雑話せるを見る、余は小声にて目科を控え「今時分藻西太郎に逢う事が出来ようか」と問う、目科は「出来るとも僕が此事件の詮鑿を頼まれて居るでは無いか仮令《たと》い夜の夜半《よなか》でも必要と認れば其罪人に逢い問糺《といたゞ》す事を許されて居る」と云い余を入口に待せ置き内に入りて二言三言、何事をか残員《のこりいん》と問答せし末、出来《いできた》りて再び余を従えつ又奥深く進み行き、裏庭とも思わるゝ所に出で、※[#「研のつくり」、第3水準1−84−17]《そ》を横切りて長き石廊に登り行詰る所に至れば厳《いか》めしき鉄門あり、番人に差図《さしず》して之を開かせ其内に踏み入るに是が牢屋の入口なる可く左右に広き室ありて室には幾人の巡査集れるを見る、室と室との間に最《いと》険《けわ》しき階段あり之を登れば廊下にして廊下の両側に列《つら》なれる密室は悉《こと/″\》く是れ囚舎《ひとや》なるべく其戸に一々逞ましき錠を卸せり、廊下の入口に立てる一人、是が世に云う牢番ならんか、兼《かね》て小説などにて読みたる剛《こわ》らしき人とは違い存外に気も軽げなれど役目が役目だけ真面《まじめ》には構えたり、此者目科を見るよりも腰掛を離れて立ち「やア旦那ですか、多分|入《いら》ッしゃるだろうと思ッて居ました何でもバチグノールの老人を殺した藻西とか云う罪人にお逢い成《なさ》るのでしょうね目「爾《そう》だ、何か其藻西に変ッた事でも有るのか牢番「なに変《かわっ》た事は有りませんが唯《た》ッた今警察長がお見《みえ》に成り彼れに逢て帰たばかりですから目「夫《それ》だけで能《よ》く己の来たのが藻西に逢う為めだと分ッたな牢番「いえ夫だけでは有ません、警察長は僅か二三分囚人と話て帰り掛けにアノ野郎言張て見る気力さえ無い、斯《こ》う早く罪に服そうとは思わなんだが是で最《も》う充分だ今に目科が遣て来て彼奴《きゃつ》の言立を聞き失望するだろうと何か此様な事を呟いて居ましたから」目科は之を聞き扨《さて》は罪人|早《は》や既に爾《そう》まで罪に服したるやと驚きしものゝ如く、嚊煙草を取出す事すら打忘れて牢の入口を鋭く見遣《みや》れり、牢番は目科の様子に気を留ずして言葉を続け「成るほどあれでは服罪しましょう、私《わた》しは一目見た時から此野郎|迚《とて》も言開《いいひらき》は出来まいと思いました目「して藻西は今何をして居
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