本統にと繰返し/\呟きます検査官は之を聞て再び彼れの傍に近附て何うしたか自分で知って居るだろう、愈々罪に服するかと問ますと彼れは爾《そう》ですと云わぬばかりに頷首《うなず》きながら何うか独りで置て下さいと云うのです、夫でも若《も》しや独りで置いて自殺でも企てる様な事が有ては成らぬと思い吾々は竊《ひそか》に見張を就《つけ》て牢から退き、検査官と同僚巡査一人とは本署に残り私しが此通り顛末の報告に参りました」と世に珍しき長談議も茲《こゝ》に漸《ようや》く終りを告げたり。
聞終りて警察長は「是で最う何も彼も明々白々だ」と呟き予審判事も同じ思いと見え「左様《さよう》、明々白々です、外に何《ど》の様な事情が有《あろ》うとも藻西太郎が此事件の罪人と云う事は争われぬ」と云う、余は実に驚きたれど猶《な》お合点の行かぬ所あり横鎗を入んため将《まさ》に唇頭《くちびる》を動さんとするに目科も余と同じ想いの如く余よりも先に口を開き「是《これ》を明々白々とすれば藻西は伯父を殺した後で自分の名を書附て行た者と思わねばならぬ、其様な事は何うも無い筈《はず》だが、警「無さ相《そう》でも好《よ》いじゃ無いか当人が白状したと云えば夫から上確な事は無い、成るほど血の文字が少し合点が行かぬけれど是も当人に篤《とく》と問えば必ず其訳が分るだろう、唯吾々が充分の事情を知らぬから未《ま》だ合点が行かぬと云う丈の事」判事は目科の横鎗にて再び幾分の危《あやぶ》む念を浮べし如く「今夜|早速《さっそく》牢屋へ行き篤《とく》と藻西太郎に問糺《といたゞ》して見よう」と云う。
是《これ》にて判事は猶《な》お警察長に向い先刻死骸検査の為《た》め迎《むかえ》に遣《や》りたる医官等も最早《もは》や来《きた》るに間も有るまじければ夫《それ》まで茲《こゝ》に留《とゞま》られよと頼み置き其身は書記及び報告に来し件《くだん》の巡査と共に此家より引上げたり、後に警察長は予審判事の頼みに従いて踏留《ふみとゞま》りは留りしかど最早夕飯の時刻なれば、成る可く引上げを早くせんと思いし如くそろ/\室中《しつちゅう》の抽斗《ひきだし》及び押入等に封印を施し初めぬ。
余と目科両人は同じ疑いに心迷い顔見合せて立つのみなりしが、目科は徐々《そろ/\》と其疑いの鎮まりし如く「爾《そう》さなア、矢張り血の文字は老人が書たのかも知れぬ」余は忽《たちま》ち目を見開き「老人が左の手でかね、其様な事が有うか夫《それ》に老人が唯《たゞ》一突《ひとつき》で文字などを書く間も無く死《しん》だ事は僕が受合う」あゝ余と目科との間柄は早や君《きみ》僕《ぼく》と云う程の隔て無き交《まじわ》りと為《な》れり目「全く相違ないのかね余「傷から云えば全く爾《そう》だよ、今に検査の医者も来るだろうから問うて見たまえ、尤《もっと》も僕は猶《な》お卒業もせぬ書生の事だから当《あて》には成らぬかも知れぬが医官に聞けば必ず分る」目科は又も空箱を取出しながら「此事件には猶《ま》だ吾々の知らぬ秘密の点が有るに極《きま》ッて居る、其点を検めるが肝腎だ夫《それ》を検めるには是から更に詮策を初めねばならぬが、爾《そう》だ更に初めても構いはせぬなア面白い初めようじゃ無いか好《よ》し/\其積《そのつもり》で先《ま》ず第一に此家の店番を呼び問正《といたゞ》して見よう」斯《こう》云《い》いて目科は梯子段《はしごだん》の際《きわ》に行き、手欄《てすり》より下階《した》を窺《のぞ》きて声を張上げ店番を呼立たり。
第五回(種々《しゅ/″\》の証拠)
店番の来るまでにて目科は更に犯罪の現場の検査を初め、中にも此《この》室《へや》の入口の戸に最も深く心を留めたり、戸の錠前は無傷にして少しも外より無理に推開きたる如き痕《あと》無《な》ければ是《これ》だけにて曲者《くせもの》が兎《と》にも角《かく》にも老人と懇意《こんい》の人なりしことは確《たしか》なり、余は又目科が斯《か》く詮|鑿《さく》する間に室中を其方此方《そちこち》と見廻して先に判事の書記が寄りたる卓子《てえぶる》の下にて見し彼のコロップの栓を拾い上げたり、要《よう》も無き唯《ただ》一個《ひとつ》の空瓶の口なれば是が爾《さ》までの手掛りに為《な》ろうとは思わねど少しの手掛りをも見落さじとの熱心より之も念の為にとて拾い上げしなれ、拾い上げて検《あらた》め見るに是れ通常の酒瓶の栓にして別に異《かわ》りし所も無し、上の端には青き封蝋の着きし儘にて其真中に錐《きり》をもみ込し如き穴あるは是れ螺旋形《うずまき》のコロップ抜《ぬき》にて引抜《ひきぬき》たる痕《あと》なるべし、尤《もっと》も護謨《ごむ》同様に紳縮《のびちゞ》みする樹皮《きのかわ》なれば其穴は自《おのずか》ら塞《ふさ》がりて唯《た》だ其傷だけ残れるを見るのみなれば更に覆《くつが》えして下《しも》の端を眺れば茲《こゝ》には異様なる切創《きりきず》あり、何者が何の為にコロップの栓の裏に斯《かゝ》る切創を附けたるにや、其創は最《もっとも》鋭き刃物にて刺したる者にて老人の咽《のんど》を刺せし兇刃《きょうじん》も斯《かゝ》る業物《わざもの》なりしならん、老人の咽を突きしも此コロップを突し如くに突しにや、斯《か》く思いて余はゾッと身震いしつ、其儘《そのまゝ》持行きて目科に示すに彼れ右見左見《とみこうみ》打眺《うちなが》めたるすえ「コレハ大変な手掛だ」と云い嚊煙草の空箱を取出す間も無く喜びの色を浮べたれば、余は何故《なにゆえ》是が大変の手掛りなるやと怪みて打問うに彼れ今も猶《な》お押入其他の封印に忙わしき彼の警察長を尻目に見、彼れに何事も聞えぬ様小声にて説明《ときあか》す「何故だッて君、此コロップは曲者が捨て行たのでは無いか、先《ま》ず此傷を見給え此傷を、是は確に老人を刺した刃物で附けたのだ」余も同じく小声にて「何の為に目「何の為に、其様な事を聞く奴が有るものか、曲者は余程鋭い両刃《もろは》の短剣を持て来たのだ、両刃と云う事は此傷の形で分る、傷の中程が少し厚くて両の縁《ふち》が次第に細く薄く成《なっ》て居るじゃ無《な》いか余「成るほど爾《そう》だ目「爾《さ》すれば此《この》鋭利《するど》い短剣を曲者は何《ど》うして持て来たゞろう、人に見られぬ様に隠して居たのは明かだ、さア隠すなら何所《どこ》へ隠す、着物の衣嚢《かくし》とか其他先ず自分の身の中《うち》には違い無いが其|鋭利《するど》いものを身の中へ隠すのは極めて険呑《けんのん》だ、少し間違えば自分の身に怪我をするか或は又|剣先《きっさき》の刃を欠くと云う恐《おそれ》が有る、して見れば何かで其剣先を包んで置かねばならぬ、さア何で包んだ、即ち此コロップだろう、コロップは柔《やわら》かで少しも刃を傷める患《うれ》いが無いから夫《それ》で之をそッと其剣先へ刺込で衣嚢《かくし》へ入れて来たのだ余「説き得て妙目「老人を突く時に此コロップを外したが後では最《も》う誰にも認られぬうち早く立去ろうと思うからコロップなどは打忘れて帰たゞろう余「成るほど目「所《ところ》で比コロップには青い封蝋が附いて居るから何か一種の銘酒の瓶に用いて有ッたに違い無い、斯《か》く段々推して行けば次第に捜すのも易くなる、何にしろ此コロップは大変な手掛だ、是が手に入る以上は僕必ず曲者を捕えて見せる」と云終《いいおわ》りて其コロップを衣嚢《かくし》に入《いる》るに此所へ入来るは別人ならず今しも目科が呼置きたる此家の店番にして即ち先刻余と目科と此家に入込しとき店先にて大勢の店子等《たなこら》に泡を吹きつゝ話し居たる老女なり、女「何御用か知ませんが少々用事も有ますので余りお手間の取れぬ様に願います」と云いつゝ老女は目科の差出す椅子に寄れり、目科は何所《どこ》と無く威光高き調子を現わし「少し聞度《きゝた》い事が有るので、是から一々お前に問うから何も彼も腹臓なく答えぬと返てお前の不為《ふため》だよ女「はい心得ました」目科は判事の尋問する如く己れも先ず椅子に寄りて「殺された老人の名は何と云う、女「梅五郎《ばいごろう》と申《もうし》ました目「何時《いつ》から此《この》家《いえ》に住で居る女「はい八年前から目「其前は何所《どこ》に住だ女「夫《それ》まではリセリウ街《まち》で理髪店を開いて居ました、老人は理髪師で身代《しんだい》を作ッたのです目「何《ど》れほどの身代が有る女「確《たしか》には知ませんが老人の甥が時々申ますに伯父は命を取られると云う場合には随分百万|法《フランク》くらいは出し兼ぬと云いました」目科は心の中にて「ふゝむ予審判事は何かの書面を頻《しき》りと書記に写させて居たから梅五郎の身代を残らず調べ上て行たと見えるな」と打呟《うちつぶや》き更に又老女に向い「して梅五郎老人は平生《へいぜい》何《ど》の様な人だッた女「極々《ごく/\》の善人でした、尤《もっと》も少し我儘《わがまゝ》で剛情な所は有ましたが高ぶりは致しません、少し機嫌の能《よ》い時は面白い事ばかり言て人を笑せました、爾《そう》でしょうよ流行社会の理髪師で巴里《ぱり》中の美人は一人残らず彼《あ》の人の手に掛ッて髪をくねらせて貰ッたと云う程ですもの目「暮し向は女「先《ま》ア当前ですねえ、自分で儲溜《もうけた》めた金で暮す人には丁度相当と思われる暮し方でした、夫《それ》かとて無駄使などは決して致しませんでしたが目「夫だけでは確《しか》と分らぬ何か是と云う格別な所が有そうな者だ女「有ますとも老人の室の掃除|向《むき》と給仕とは私《わたく》しが引受けて居ましたもの、大層|甲斐々々《かい/″\》しい老人で室の掃除などは大概《たいがい》一|人《にん》で仕て仕舞い私には手を掛させぬ程でした、何がなし暇さえあれば掃《はい》たり拭《ふい》たり磨《みがい》たり仕て居るが癖ですから目「給仕の方は女「給仕の方は毎日昼の十二時を合図に私しがお膳を持て来るのです、夫が老人の朝飯です、朝飯が済でから身仕度するが凡《およ》そ二時まで掛ります、大層着物を被《き》るのが八《や》かましい人で毎《いつ》でも婚礼の時かと思うほど身綺麗《みぎれい》にして居ました、身仕度が終ると家を出て宵《よい》の六時まで散歩し六時に外で中食《ちゅうじき》を済せ、夫から多くはゲルボアの珈琲館に入り昔友達と珈琲を呑《のん》だり歌牌《かるた》を仕たりして遅くも夜の十一時には帰て来て寝床《ねどこ》に就きました、ですが唯《たっ》た一つ悪い事にはあの年に成《なっ》て猶《ま》だ女の後を追掛る癖が止みませんから私しは時々年に恥ても少しは謹《つゝし》むが好《よか》ろうと云いました、ですが誰でも落度は有る者《もの》で夫《それ》に若い頃の商売が商売で女には彼是《かれこ》れ云れた方ですから言えば無理も有りますまいが」と云い少し笑いを催し来《きた》れど目科は極めて真面目にて「して梅五郎の許《もと》へは沢山《たくさん》尋ねて来る人が有たのか女「はい有ッても極極《ごく/\》僅《わず》かです其うちで屡々《しば/\》来るのが甥の藻西太郎さんで、土曜日の度には必ず老人に呼ばれてラシウル料理店へ中食に行きました目「甥と老人との間柄は女「此上も無く好い仲でした目「是までに言争いでも仕た事は女「決して有りません、尤もお倉《くら》さんの事に就ては両方の言う事が折合ませんですけれど目「お倉さんとは誰の事だ女「藻西太郎さんの細君《おかみさん》です、実に奇麗な女ですよ。あの様なのが先《ま》ア立派な女と云うのでしょう、夫《それ》に外に悪い癖は有りませんけれど其お倉さんも大変な衣服蕩楽《なりどうらく》で藻西太郎さんの身代に釣あわぬほど立派な身姿《みなり》をして居ますから綺倆《きりょう》が一層引立ちます、ですから全体云えば老人が大層誉め無ければ成らぬ筈ですのに何《ど》う云う者か老人は其お倉さんが大嫌いで藻西太郎さんに向ッては手前は女房を愛し過る今に見ろ女房の鼻の先で追使われる様になるからとか、お倉は手前の様な亭主に満足する女じゃ無い、今に見ろ何か間違いを仕出来《しでか》すからとか其様な事ばかり言て居ました
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