いわ》んとして泣声に胸《むね》塞《ふさ》がり暫し言葉も続かざりしが漸くに心を鎮め「はい所天は一昨夜外へ出まして目「外へ出て何所へ行きました倉「モントローグまで参りました、兼《かね》て同所に此店の職人が住で居まして、先日得意先から注文された飾物を其職人に誂《あつら》えて置きました所《とこ》ろ、一昨日が其出来|揚《あが》りの期限ですのに、夜《よ》に入るまで届けて来ませんから、若《も》し此上遅れては注文先から断られるかも知れぬと云い夫《それ》を所天《おっと》は心配しまして九時頃から其職人の所へ催促に出掛ました尤《もっと》も私しもリセリウ街《がい》の角まで送て行ッたから確かです其所《そこ》から所天がモントローグ行きの馬車に乗る所まで私しは見て帰りました」余は傍より此返事を聞き、是ぞ正しく藻西が無罪の証拠なると安心の息を発《ほっ》と吐《つ》きたり、目科も少し調子を柔げ「爾《そう》すると其職人に問えば分りますね、十一時頃までは多分其職人と一緒に居たでしょうから」実に然り、彼《か》の老人が殺されし家の店番の証言にては藻西太郎が九時頃に老人の室《へや》に来り十二時頃まで老人と話して帰りたりとの事なれば、若《も》し藻西が十一時前後頃に其職人と一緒に居たりとの事分らば、老人の許《もと》を問いしは藻西太郎に非《あら》ずして藻西に似たる別人なること明かなれば、老人を殺せしも矢張《やはり》其別人にして藻西の無罪は明白に分り来らん、目科が念を推《お》す言葉に倉子は却《かえっ》て落胆し「さア夫《それ》が分らぬから運の尽だと申すのです目「え、え、夫が分らぬとは、又|何《ど》う云う訳で倉「生憎其職人が内に居なくて所天《おっと》は逢ずに帰ッて参りました」目科も失望せしと見え急しく煙草を嚊ぐ真似して其色を隠し「成るほど夫は不運ですね、でも其家の店番か誰かゞ貴方の所天を認めたでしょう倉「夫が店番の有る様な家では無いのです。自分の留守には戸を〆《しめ》て置くほどの暮しですから」ああ読者よ、如何にも是は運の尽なり、実際には随分あり勝の事柄なれど、裁判の証拠には成難《なりがた》し、証拠と為らざるのみならで若《も》し裁判官に此事を聞せては却《かえっ》て益々疑わしと云い藻西太郎に罪のある証拠に数えん、之を思えば藻西太郎が、直《すぐ》に自ら白状したるも之が為に非ざるか、有《あり》の儘《まゝ》を言立たりとて不運に不運の重なりし事なれば信ぜらるゝ筈は無く却ッて人を殺せし上裁判官をまで欺《あざむ》く者と認められて二重の恥を晒《さら》す理《り》なれば、我身に罪は無しとは云え、孰《いず》れとも免れぬ場合、潔《いさぎ》よく伏罪し苦しみを短かくするに如《し》くなしと無念を呑《のみ》て断念《あきら》めし者ならぬか、余が斯《か》く考え廻すうちに目科は又問を発して「だが藻西は何時頃に帰て来ました倉「十二時過る頃でした目「何故其様に遅かッたでしょう倉「はい私しも少し遅過ると思いましたから問いましたが或《ある》珈琲店《かひいてん》へ寄り麦酒《ばくしゅ》を飲《のん》で居たと云いました目「帰ッた時は何《ど》の様な様子でした倉「少し不機嫌では有ましたが、夫は尤《もっと》もの次第です目「着物は何の様なのを被《き》て居ました倉「昨日捕えられた時と同一《ひとつ》の着物でした目「夫にしても彼の様子か顔附に何か変ッた所は有りませんでしたか倉「少しも有りませんでした」


          第九回(詰らぬ事)

 余は初めより目科の背後《うしろ》に立てる故、気を落着けて充分に倉子の顔色を眺むるを得《え》、少しの様子をも見落さじと勉《つと》めたるに、倉子が幾度も泣出さんとし殆《ほとん》ど其涙を制し兼る如き悲みの奥底に何処《どこ》と無く微《かすか》に喜びの気を包むに似たる心地せらるゝにぞ、若しもや目科夫人の言いし如く此女に罪あるに非ざるやと疑う念を起しはじめ、幾度か自ら抑えて又幾度か自ら疑い、終《つい》に目科の誡《いまし》めを打忘れて横合より口を出《いだ》せり余「ですが内儀《ないぎ》、老人の殺された夜、太郎どのが其職人の家へ行かれた留守に貴女《あなた》は何所《どこ》に居たのです」倉子は宛《あたか》も余が斯く問うを怪む如く其|眼《まなこ》を余が顔に上げ来り最《いと》柔《やわら》かに「私しは此家に留守をして居ました、夫《それ》には証人も有る事です余「え、証人が倉「はい有ります、御存《ごぞんじ》の通り一昨夜は毎《いつ》もより蒸暑くて夫《それ》にリセリウ街《がい》で所天《おっと》に分れ内《うち》まで徒歩《あるい》て帰りました為《た》め大層|咽《のど》が乾きまして、私しは氷を喫《たべ》ようと思いましたが一人では余り淋しい者ですから右隣の靴店《くつみせ》の内儀《ないぎ》と左隣の手袋店《てぶくろみせ》の内儀を招きました所《とこ》ろ、二
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