遣《や》らる。
 去《さ》れど是等《これら》の道具立てに不似合なる逸物《いちもつ》は其汚れたる卓子《てえぶる》に※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]《よ》り白き手に裁判所の呼出状を持ちしまゝ憂いに沈める一美人なり是ぞこれ噂に聞ける藻西太郎の妻倉子なり、倉子の容貌は真に聞きしより立優《たちまさ》りて麗《うるわ》しく、其目其鼻其姿、一点の申分無く、容貌室中に輝くかと疑われ、余は斯《かゝ》る美人が如何でか恐しき罪を計《もくろ》みて我が所天《おっと》に勧めんやと思いたり、殊に其身に纏《まと》えるは愁《うれ》いを表する黒衣にして能《よ》く今日の場合に適し又最も倉子の姿に適したり、倉子の美くしきは生れ附の容貌に在りとは云え衣類の為に一入《ひとしお》引立たる者にして色も其黒きに反映して益々白し余は全く感心し暫《しば》し見惚《みと》るゝのみなりしが、感心の薄らぐと共に却て又一種の疑いを生じたり、此女|愁《うれ》いに沈めるには相違なきも真実愁いに沈みし人が衣類に斯くも注意する暇あるや、倉子が撰びに選びて最も似合しきものを着けしは殊更に其憂いを深く見せ掛る心には非ざるか、目科も内心に幾分か余と同じ疑いを起したること眼《まなこ》の光にて察せらる、倉子は余等が突然に入来るを見、驚きて飛立ちつ、涙に潤む声音にて「貴方がたは何の御用事です」と問う、目科は最《い》と厳格に「はい警察署から送られました、私《わたく》しは其筋の探偵です」と答う探偵との返事を聞き倉子は絶望せし人のごとく元の椅子に沈み込み殆ど泣声《なみだごえ》を洩さんとせしも、思直《おもいなお》してか又|起上《たちあが》り、今度は充分に怒を帯びたる声鋭く「あゝ私しを捕縛するため来たのですね、さあお縛なさいお連なさい、連て行て所天《おっと》とともに牢の中へ投込んで戴きましょう、罪無き所天を殺すなら私しも一緒に殺して下さい、さあ、さあ」と詰寄する、是が真実此女の誠心《まごゝろ》ならば誰か又此女を所天に勧めて其伯父を殺させし者と思わん、唯之だけにて無罪の証拠は充分なり、流石《さすが》の目科も持余《もてあま》して見えたるが此時彼方なる寝台の下にて狗《いぬ》の怖《こわ》らしく※[#「口+曹」、第3水準1−15−16]《うな》るを聞く、是なん兼《かね》て聞きたる藻西太郎の飼犬《かいいぬ》プラトとやら云えるにして今しも女主人が身を危《あやう》しと見、余等二人に噛附んとするなる可《べ》し、倉子は一声に「これ、プラト、怒るのじゃ無いよ、此お二人は恐しい方じゃ無いから」と、叱り附る、叱る心を暁《さとり》てか犬は再び寝台の下に隠れたれども、猶《な》お少しでも女主人の危きを見れば余等二人に飛附ん心と見え暗がりにて見張れる眼《まなこ》、宛《あたか》も二個《ふたつ》の星の如くに光れり、目科は倉子の言葉を機会《しお》に「ほんに吾々は恐しい人じゃ有《あり》ません、斯《こう》して来たのも捕縛など云う恐る可《べ》き目的では無いのです」是だけ聞きて倉子は少し安心の色を現すかと思いしに少しも爾《さ》ること無く、目科の言葉を聞ざりし如くに、我手に持《もて》る呼出状を一寸《ちょっ》と眺めて「今朝裁判所から此通り私しを午後の三時に出頭しろと云て来ましたが、裁判官は虫も殺さぬ私しの所天へ人殺の罪を被《き》せ、夫《それ》で未《ま》だ飽足《あきたら》ず、私しをまで何《ど》うか仕ようと云うのでしょう」目科は今までに余が見し事なきほど厳そかなる調子にて「裁判所は決して貴女の敵では有ません唯|問糺《といたゞ》す丈《だけ》の事です、貴女に問えば若しも藻西太郎の罪の無い証拠が上ろうかと思う為です、私しの来たのも矢張《やはり》唯《た》だ夫《それ》だけの目的で、色々貴女に問うのです、貴女の答え一つに依り嫌疑が益々重くもなり、又全く無罪にも成りますから腹臓《ふくぞう》なく返事するのが肝腎です、さ何《ど》うか腹臓なく」と云《いわ》れて倉子は凡そ一分間が程も其青き眼《まなこ》を挙《あ》げ目科の顔を見詰るのみなりしが、漸《ようや》くにして「さアお問なさい」と云う、あゝ目科は如何なる問を設けて倉子を罟《わな》に落さんとするや、定めし昨夜藻西太郎を問し如く敵の備え無き所を見て巧みに不意の点のみを襲うならんと、余は窃《ひそ》かに堅唾《かたず》を呑みしに彼れは全く打て変り、正面より問進む目「えー、藻西太郎の伯父|梅五郎《ばいごろう》老人の殺されたのは一昨夜の九時から十二時までの間ですが其間丁度藻西太郎は何所《どこ》に居ました何をして」倉子は煩悶に堪えぬ如く両の手を握り〆《し》め「是が本統に、運の尽《つき》と、云う者です」と言掛けて涙に咽《むせ》ぶ目「運の尽とは何《ど》う云う者です、所天《おっと》が何所に何をして居たか、貴女が知らぬ筈《はず》は有りますまい倉「はい」と漸く言《
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