る大議論が女流の口より出来《いできた》らんとは
 余が怯まんとする色を見て細君は更に又力強き新論鋒《しんろんぽう》を指向《さしむけ》て「夫《それ》で無ければ第一又老人の左の手に血の附《つい》て居たのが分ら無くなッて来ます、若しも貴方の云う通り藻西太郎より外の者が老人を殺し其疑いを藻西に掛ようと思ッて血の文字を書たのなら、其者こそ文字は右の手で書くか左の手で書くかも知《しら》ぬ馬鹿ものと云わねばなりますまい、夫ほどの馬鹿ものが世に有ましょうか、老人の左の手へ血を附けて置けば誰も老人が自分で書いたとは思いません、曲者の目的は外れます、藻西太郎へ疑いを掛けようとして却《かえっ》て彼の疑いを掃い退《のけ》て遣《や》る様な者です、人を殺して後で其血で文字を書附るほど落着た曲者《くせもの》が真逆《まさか》に老人の左の手を右の手とは間違えますまい、ですから藻西の外に曲者が有るとすれば其曲者は決して老人の左の手へ血は附けません必ず何《ど》う見ても老人が自分で書たに違い無いと思われる様に右の手へ附けて置きます、所が之と事かわり、其曲者を私しの云う通り藻西自身だとすれば全く違ッて参ります何《ど》うでも左の手へ血を附《つけ》て置《おか》ねば成らぬのです、何故と仰有《おっしゃ》れば藻西ならば其文字を本統に老人が書たものと認められては大変です、自分の首が無く成ります、何《ど》うしても老人が書たで無く曲者の書たに違い無い様に見せて置ねばなりません、爾《そう》見せるには何うすれば好いのでしょう、即ち血を老人の左の手へ附けて置くに限ります、左の手に附て置けば誰も老人の仕業とは思わず、去《さ》ればとて現に藻西の名を書《かい》て有るから真逆《まさか》に藻西が自分で自分の名を書く程の馬鹿な事を仕様とは猶更《なおさら》思われず、否応《いやおう》なく疑いが外の人へ掛ッて行きます、論より証拠には貴方さえも無理に疑いを外の人へ持て行こうと成《なさ》ッて居るでは有ませんか、先《ま》ア能《よ》く考えて御覧なさい」と是だけ言て息を継ぐ、余が返事の出《いで》ぬを見、細君は少し気の毒と思いし如く「尤《もっと》も女の似而非《えせ》理屈とか云う者でしょう、素《もと》より現場も見ませんで、真逆当りは仕ませんけれど既に店番が藻西を見たと云い其上|連《つれ》て居た犬は藻西の外の者へは馴染《なじま》ぬとも云たのでしょう夫《それ》や是《これ》や考えて見ると藻西と云う方が何《ど》うしても近いかと思われます、詰《つま》り藻西は何《なん》でしょう随分智慧の利《き》く男で、通例の手段では倒底助からぬと思ッたからずッと通越して此様な工夫を定めたのでしょう」細君の言葉の調子が斯《か》く大《おおい》に柔かくなるに連れ余の疑いも亦再び芽を吹き「爾《そう》すると藻西が自分で白状したのは何《ど》う云う者でしょう細「夫《それ》が即ち彼れの工夫の一部分では有ませんか余「だッて貴女、彼れは老人が何で殺されたか夫《それ》さえ知ぬ程ですもの細「知ぬ事は有ますまい、貴方がたが鎌を掛たから夫《それ》を幸いに益々知らぬ振《ふり》をするのです、此方から短銃《ぴすとる》と言た時に直様《すぐさま》はい其|短銃《ぴすとる》は云々《しか/″\》と答えたのが益々彼れの手管《てくだ》ですわ、詰《つま》り彼れは丁度計略の裏を書《かい》て居るのです、其時若し彼れがいえ短銃《ぴすとる》では有ません短剣でしたと答えたなら貴方がたも之ほどまで彼れを無罪とは思わず彼れの工夫が破れて仕舞いましょう、貴方がたの見て驚く所が彼れの利口な所だと私しは思いますが」
 余は猶《な》お何とやら腑に落ぬ所あれば更に議論を進めんとするに、目科は横合《よこあい》より細君に声を掛け「これ/\、和女《そなた》は今夜|何《ど》うかして居るよ、毎《いつ》もと違い余り小説じみた事を云う」と制し更に余が方《かた》に向来《むききた》りて「今夜は最《も》う置きたまえ、僕は既に眠くなッた。其代り明早朝に又君を誘うから」
 実に目科は多年経験を積みし為め事に掛れば熱心に働き通し、其代り又|一《ひとた》び心を休めんと決すれば、其休むる時間|丈《だ》け全く其事を忘れ尽して他の事を打楽しむ癖を生じたる如くなるも余には仲々其真似出来ず「然《さ》らば」とて夫婦に分れを告げ居間に帰りて寝て後も唯《たゞ》此事件のみ気に掛り眠らんとして眠り得ず、「あゝ藻西太郎は罪無きに相違なし」と呟き「罪なき者が何故に自ら白状したるや」と怪み、胸に此二個の疑団《ぎだん》闘い、微睡《まどろ》みもせず夜を明しぬ


          第八回(太郎の妻)

 読者よ、初めて此犯罪に疑いを容《い》れたるは実に余なり、余が老人の死骸を見て其顔に苦痛の体《てい》なきと其右の手に血の痕なきを知りてより斯《かく》は疑い初めたる者なれば余は如
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