そう》も見えませんでしたが、何と云ても検査官の承知せぬのを見、今度は泣ながら詫をして何《ど》うか所天を許して呉れと願いました、気の毒は気の毒でも役目には代られませんから検査官は少しも動きません、女も終《つい》には思い切《きっ》たと見え所天の首に手を巻て貴方は此様な恐ろしい疑いを受けて無言《だまっ》て居るのですか覚えが無《ない》と言切てお仕舞いなさい貴方に限て其様な事の無いのは私しが知て居ますと泣きつ口説《くどき》つする様《さま》に一同涙を催《もよお》しました、夫《それ》だのに藻西太郎と云う奴は本統に酷《ひど》い奴ですよ、何《ど》うでしょう其泣て居る我が女房を邪慳《じゃけん》にも突飛《つきとば》しました、本統に自分の敵《かたき》とでも云う様に荒々しく突飛しました、女房は次の室《ま》まで蹌踉《よろめい》て行て仆《たお》れましたが夫《それ》でも先《ま》ア幸いな事には夫でいさくさも収りました、何でも女房は仆れた儘《まゝ》気絶した様子でしたが其暇に検査官は亭主を引立て直様《すぐさま》戸表《とおもて》に待せある馬車へと舁《かつ》いで行きました、いえ本統に藻西を舁いだのです彼れは足がよろ/\して馬車まで歩む事も出来ぬのです、え何と恐ろしい者じゃ有ませんか、我が悪事が早や露見したかと失望したので足が立なく成たのです、先々《まず/\》是で厄介を払たと思た所ろ女房の外に猶《ま》だ一つ厄介者が有たのですよ、夫を何だと思います、彼れの飼《かっ》て居る黒い犬です、犬の畜生女房より猶だ手に合ぬ奴で、吾々が藻西太郎を引立ようとすると※[#「けものへん+言」、第4水準2−80−36]々《わん/\》と吠て吾々に食《くら》い附《つこ》うとするのみか追ても追ても仲々聴ません、実に気の強い犬ですよ、夫でも先《ま》ア味方は三人でしょう敵は纔《わずか》に一匹の犬だから漸《ようや》くに追退《おいのけ》て藻西を馬車へ引載ると今度は犬も調子を変え、一緒に馬車へ乗うとするのです、夫も到頭|追払《おっぱら》いやッとの事で引上る運びに達しましたが、其引上る道々も検査官は藻西太郎を慰めようとしますけれど彼れ首《こうべ》を垂れて深く考え込む様子で一言も返事しません、夫から警察本署へ着た頃は少し心も落着た様子でしたが、頓《やが》て牢の中へ入《いれ》ますと、彼れ唯一人淋しい一室へ閉籠られただけ又首を垂れあゝ何《ど》うしたんだなア本統にと繰返し/\呟きます検査官は之を聞て再び彼れの傍に近附て何うしたか自分で知って居るだろう、愈々罪に服するかと問ますと彼れは爾《そう》ですと云わぬばかりに頷首《うなず》きながら何うか独りで置て下さいと云うのです、夫でも若《も》しや独りで置いて自殺でも企てる様な事が有ては成らぬと思い吾々は竊《ひそか》に見張を就《つけ》て牢から退き、検査官と同僚巡査一人とは本署に残り私しが此通り顛末の報告に参りました」と世に珍しき長談議も茲《こゝ》に漸《ようや》く終りを告げたり。
 聞終りて警察長は「是で最う何も彼も明々白々だ」と呟き予審判事も同じ思いと見え「左様《さよう》、明々白々です、外に何《ど》の様な事情が有《あろ》うとも藻西太郎が此事件の罪人と云う事は争われぬ」と云う、余は実に驚きたれど猶《な》お合点の行かぬ所あり横鎗を入んため将《まさ》に唇頭《くちびる》を動さんとするに目科も余と同じ想いの如く余よりも先に口を開き「是《これ》を明々白々とすれば藻西は伯父を殺した後で自分の名を書附て行た者と思わねばならぬ、其様な事は何うも無い筈《はず》だが、警「無さ相《そう》でも好《よ》いじゃ無いか当人が白状したと云えば夫から上確な事は無い、成るほど血の文字が少し合点が行かぬけれど是も当人に篤《とく》と問えば必ず其訳が分るだろう、唯吾々が充分の事情を知らぬから未《ま》だ合点が行かぬと云う丈の事」判事は目科の横鎗にて再び幾分の危《あやぶ》む念を浮べし如く「今夜|早速《さっそく》牢屋へ行き篤《とく》と藻西太郎に問糺《といたゞ》して見よう」と云う。
 是《これ》にて判事は猶《な》お警察長に向い先刻死骸検査の為《た》め迎《むかえ》に遣《や》りたる医官等も最早《もは》や来《きた》るに間も有るまじければ夫《それ》まで茲《こゝ》に留《とゞま》られよと頼み置き其身は書記及び報告に来し件《くだん》の巡査と共に此家より引上げたり、後に警察長は予審判事の頼みに従いて踏留《ふみとゞま》りは留りしかど最早夕飯の時刻なれば、成る可く引上げを早くせんと思いし如くそろ/\室中《しつちゅう》の抽斗《ひきだし》及び押入等に封印を施し初めぬ。
 余と目科両人は同じ疑いに心迷い顔見合せて立つのみなりしが、目科は徐々《そろ/\》と其疑いの鎮まりし如く「爾《そう》さなア、矢張り血の文字は老人が書たのかも知れぬ」余は忽《たちま》ち目を見
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