何にしても藻西太郎の無罪なるを証拠立てねばならず、のみならず現に無罪と思う者が裁判官の過ちや其外の事情の為め人殺しの罪に落さるゝを見、知ぬ顔にて過さる可《べ》きや、余は此事件の真実の転末を知んが為には身を捨《すて》るも可なり職業を捨《すつ》るも惜からずとまでに思いたり、思い/\て夜を明し藻西太郎は確に無罪なりと思い詰《つむ》るに至りしかど又|翻《ひるが》えりて目科の細君が言たる所を考え見れば、余が無罪の証拠と見認《みと》むる者は悉《こと/″\》く有罪の証拠なり細君の言葉は仮令《たと》い目科の評せし如く幾分か「小説じみ」たるに相違無しとするも道理に叶わぬ所とては少しも無し、成るほど藻西太郎は其妻にほだされて伯父を殺すの事情充分あり「之加《しか》も自ら殺せしと白状したり」愈々《いよ/\》彼れが殺せしとすれば成るほど其疑を免るゝ奇策として我名を記《しる》すの外なきなり、我名を記すも老人の右の手を以て記す可からず、唯左の手を以て記すの一方なり、余の疑いは実に粉々に打砕かれたるに同じ、余は殆ど返す可き言葉を知ず、あゝ余は竟《つい》に此詮索を廃す可きか、余の過ちを自認す可きか。
余が殆ど思い屈したる折しも昨夜の約束を忘れずして目科は余の室に入来れり、彼れは余の如く細君の言葉には感服せざるか思《おもい》屈《くっ》する体《てい》更に無く、却《かえっ》て顔色も昨夜より晴渡れり、彼れ第一に口を開き「今日も君一緒に行くが其代り今から誡《いまし》めて置く事が有る僕が何《ど》の様な事を仕ようと決して口を出し給うな、若《も》し僕に口をきゝ度《た》いなら誰も外に人の居無い本統の差向いに成《なっ》た時を見て言給え」余は素《もと》より自ら我が智識我が経験の目科に及ばざるを知れば此誡めを不平には思わず唯《たゞ》再び此詮索に取掛るの嬉しさに一も二も無く承諾して早速に家を出《いで》しが、目科の今日の打扮《いでたち》は毎《いつ》もより遙か立派にして殊に時計其他の持物も殆ど贅沢の限りを尽し何《ど》う見ても衣服蕩楽《なりどうらく》、持物蕩楽なる金満家の主人にして若し小間物屋の店の者にでも見せたらば斯《かゝ》る紳士を得意にし度《た》しと必ず涎《よだれ》を流すならん、何故《なにゆえ》に斯《かく》も立派に出立《いでたち》しや、余は不審の思いを為し、歩みながらも「君今日は何《ど》の様な方針を取る積りか」と問しに目科は
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