開き「老人が左の手でかね、其様な事が有うか夫《それ》に老人が唯《たゞ》一突《ひとつき》で文字などを書く間も無く死《しん》だ事は僕が受合う」あゝ余と目科との間柄は早や君《きみ》僕《ぼく》と云う程の隔て無き交《まじわ》りと為《な》れり目「全く相違ないのかね余「傷から云えば全く爾《そう》だよ、今に検査の医者も来るだろうから問うて見たまえ、尤《もっと》も僕は猶《な》お卒業もせぬ書生の事だから当《あて》には成らぬかも知れぬが医官に聞けば必ず分る」目科は又も空箱を取出しながら「此事件には猶《ま》だ吾々の知らぬ秘密の点が有るに極《きま》ッて居る、其点を検めるが肝腎だ夫《それ》を検めるには是から更に詮策を初めねばならぬが、爾《そう》だ更に初めても構いはせぬなア面白い初めようじゃ無いか好《よ》し/\其積《そのつもり》で先《ま》ず第一に此家の店番を呼び問正《といたゞ》して見よう」斯《こう》云《い》いて目科は梯子段《はしごだん》の際《きわ》に行き、手欄《てすり》より下階《した》を窺《のぞ》きて声を張上げ店番を呼立たり。
第五回(種々《しゅ/″\》の証拠)
店番の来るまでにて目科は更に犯罪の現場の検査を初め、中にも此《この》室《へや》の入口の戸に最も深く心を留めたり、戸の錠前は無傷にして少しも外より無理に推開きたる如き痕《あと》無《な》ければ是《これ》だけにて曲者《くせもの》が兎《と》にも角《かく》にも老人と懇意《こんい》の人なりしことは確《たしか》なり、余は又目科が斯《か》く詮|鑿《さく》する間に室中を其方此方《そちこち》と見廻して先に判事の書記が寄りたる卓子《てえぶる》の下にて見し彼のコロップの栓を拾い上げたり、要《よう》も無き唯《ただ》一個《ひとつ》の空瓶の口なれば是が爾《さ》までの手掛りに為《な》ろうとは思わねど少しの手掛りをも見落さじとの熱心より之も念の為にとて拾い上げしなれ、拾い上げて検《あらた》め見るに是れ通常の酒瓶の栓にして別に異《かわ》りし所も無し、上の端には青き封蝋の着きし儘にて其真中に錐《きり》をもみ込し如き穴あるは是れ螺旋形《うずまき》のコロップ抜《ぬき》にて引抜《ひきぬき》たる痕《あと》なるべし、尤《もっと》も護謨《ごむ》同様に紳縮《のびちゞ》みする樹皮《きのかわ》なれば其穴は自《おのずか》ら塞《ふさ》がりて唯《た》だ其傷だけ残れるを見
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