》に来たのです」目科の名を聞き巡査の剣幕は打って代り「いや貴方《あなた》でしたか、爾《そう》とは思いも寄りませず」と遽《あわたゞ》しく言訳するを聞捨て閾《しきい》を一足館内に歩み入れば驚きて茲《こゝ》に集《つど》える此家の店子《たなこ》の中に立ち、口に泡を吹かぬばかりに手真似しながら迫込《せきこみ》て話しせる一老女あり定めし此家の店番なる可《べ》し、目科は無遠慮に話の先を折り「何所《どこ》だ、何所です」と急ぎ問う「三階ですよ、三階の取附《とっつき》です、本統《ほんとう》に先《ま》ア此様な正直な家の中で、夫《それ》に日頃あの正直な老人を」と老女が答え来《きた》るを半分聞き直様《すぐさま》段梯子を四段ずつ一足に飛上《とびのぼ》る、余は肺の臓の破るゝと思うほど呼吸《いき》の世話《せわ》しきにも構わず其|学《まね》をして続いて上れば三階なる取附の右の室は入口の戸も開放せし儘《まゝ》なるゆえ、之を潜りて客室、食堂、居室等を過ぎ小広《こびろ》き寝室《ねま》へと入込《いりこ》みぬ、見れば茲《こゝ》には早や両人の紳士ありて共に小棚の横手に立てり、其一人の外被《うわぎ》に青白赤《せいはくせき》三色の線ある徽章《しるし》を佩《おび》たるは問《とう》でも著《しる》き警察官にして今一人は予審判事ならん、判事より少し離れたる所に、卓子《ていぶる》に向い何事をか書認《かきしたゝ》めつゝ有るは確《たしか》に判事の書記生なり、是等《これら》の人々何が為に此室にきたりたるぞ、余は怪むひまも無く床の真中に血に塗れたる死骸あるに気附たり、小柄なる白髪の老人にして仰向《あおむき》に打倒《うちたお》れ、傷所《きずしょ》よりいでたる血潮は既に凝《こゞ》りて黒くなれり。
余は驚きの余り蹌踉[#「蹌踉」は底本では「蹌跟」]《よろめ》きて倒れんとし纔《わずか》に傍らなる柱につかまり我が身体を支え得たり、支え得しまゝ暫《しば》しが程は殆《ほとん》ど身動きさえも得せず、読者よ余は当時医学生たりしだけに死骸を見たるは幾度なるを知らず病院にも之を見《み》学校にも之を見たり、然《しか》れども面《まのあ》たり犯罪の跡を見たるは実に此時が初てなり。然り此老人の死骸こそは恐ろしき犯罪の結果なること言う迄も無し、唯《たゞ》余の隣人目科は余ほどに驚き恐れず足踏《あしぶみ》も確に警察官の許《もと》に進むに、警察官は其顔を見るよりも「ア
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