ともできないんじゃ、仕方がない、せめてはパリ第一の遊び場に陣取ってうんと遊ぶんだね。」
 二人はそう相談をきめて、モンマルトルの真ん中に宿をとったのだ。そして予定通り昼夜兼行で遊び暮しながら僕はリヨンからのたよりを待っていた。ヨーロッパ歴遊の新しい旅券が手にはいれば、すぐ知らしてよこす筈になっていたのだ。そして僕はその知らせとともにリヨンに帰って、すぐまたドイツへ出発する手続きにかかる筈だったのだ。
 一週間ばかりしてその知らせが来た。まだ遊び足りないことははなはだ足りない。それにようやくまずこれならと思うお馴染ができかかっていたところなのだ。が、その知らせと同時に、僕にとっては容易ならん重大事がそっと耳にはいった。それは、日本の政府からパリの大使館にあてて、Sの素行を至急調べろという訓電が来たということだ。僕はこれはてっきり、Sを調べさえすれば僕の所在も分るという見当に違いない、と思った。
(これはあとで、メーデーの日の前々日かに、パリでそっと耳にした話だが、実はその時すでに、日本政府からドイツの大使館に僕の捜索命令が来て、そしてその同文電報がドイツの大使館からさらにヨーロッパ各国の大使館や公使館に来ていたのだそうだ。)
 僕もSも持っていた金はもう全部費いはたしていた。が、ようやく借金して、大急ぎで二人でパリを逃げ出した。

 Sはもとの田舎に帰った。僕はリヨンの古巣に帰った。そして、あちこち歩き廻って来たことなぞは知らん顔をして警察本部へ行ってドイツ行きを願い出た。その許可がなければ、ドイツ領事にヴィザを願い出ても無駄なのだ。
 警察本部とはちょっと離れている裁判所の建物の中に、外事課の一部の旅券係というのがあった。そこへ行くと、四、五日中に書類を外事課へ廻して置くから、来週のきょうあたり外事課へ行けば間違いなくできていると言う。で、僕は出立の日まできめて、すっかり準備して、その日を待っていた。ドイツに関する最近出版の四、五冊の本も読んだ。ドイツ語の会話の本の暗誦もした。おまけに、帰りにはオーストリア、スイス、イタリアと廻るつもりで、イタリア語の会話の本までも買った。
 ところで、その日になって警察本部の外事課へ行って見ると、またもとの裁判所の方の旅券係へ廻してあると言う。そしてその旅券係では、同じ建物の中のセルビス・ド・シュウルテという密偵局へ廻したから、そこへ行けと言う。そしてまた、その密偵局では、二、三日中に通知を出すから、そしたら改めて出頭しろと言う。うんざりはしたが、仕方がないから、帰ってその通知を待つことにした。
 二、三日待ったが来ない。四日目にとうとうしびれを切らして行って見ると、きょう通知を出して置いたから、あしたそれを持って来いと言う。
 そのあしたは密偵局でいろいろと取調べられた。旅券や身元証明書は願書と一緒にさし出してあるんだが、それを見ればすぐ分ることを始め、フランスに来てからの行動や、ドイツ行きの目的や、その他根ほり葉ほり尋ねられた。大がいのことはいい加減に辻褄の合うように返事していれば済むんだが、一番困ったのは身元証明書の中に書き入れてあることの調べだ。親爺の名とか母の名とかその生年月日とかは、国での二人の保証人のそれと同じように、みなまったく出たらめのものだった。その出たらめを一々ちゃんと覚えているのは容易なことじゃない。が、それもまず難なく済んだ。
 ただ済まないのは、目的の許可証がいつ貰えるかだ。その日には、あさってと言われたので、あさって行って見ると、またあさって来いと言う。こんどこそはと思って、そのあさって行って見ると、こんどはあしただと言う。そしてそのあしたがまたあさってになり、そのまたあしたになりあさってになりして一向らちがあかない。
 その間に僕の宿の主人も三、四度調べられた。そして一晩そこに泊ったSのことも、いろんな方面から取調べているようだった。
 僕はだんだん不安になりだした。そしていっそのことそんな合法の手続きはいっさいうっちゃって、パリで会ったロシアの同志のようにそっと国境を脱け出ようかと思った。この合法か非合法かの問題は、僕がフランスに来た最初から、僕とリヨンの同志との間に闘わされた議論だった。そんな七面倒臭いカルト・ディダンティテなどは貰わずに、勝手に駈け廻る方がよくはあるまいか、というのが僕の最初からの主張だった。が、もし何かの間違いがあれば、当然その責任は僕の世話をしてくれたそれらの人達の上にも及ぶのだからと思うと、僕はいつもその人達の合法論にふしょうぶしょうながら従うほかはなかった。こんどもまたそうだ。
 そして僕は、こうしてほとんど毎日のように警察本部に日参しながら、不安と不愉快との一カ月半ばかりを暮した。

    三

 実際いやになっちゃった。
 四月一日の大会はまたまた延期となって、こんどは八月という大体の見当ではあるが、それもはたしてやれるかどうか分らない。ドイツの同志からは、とてもベルリンでは不可能だ、と言って来ている。するとヨーロッパのどこに、その可能性のあるところがあるんだろう。ウィーンという一説もあるが、それもどうやらあぶないらしい。
 愚図愚図している間に、金はなくなる。風をひいて、おまけに売薬のために腹をこわす。無一文のまま、一週間ばかり断食して、寝て暮した。
 ようやく起きれるようになって思いがけなく家から金が来たと思うと、こんどはまた例の日参だ。あした、あさってと言われるのにも飽きて、少々理窟を並べると、フランス人の癖の両方の肩を少しあげて、「俺あそんなことは何にも知らねえ」と言ったまま相手にならない。その肩のあげかたと、にやにやした笑顔の癪に触るったらない。行くたびにむしゃくしゃしながら帰って来る。
 春にはなる。街路樹のマロニエやプラタナスが日一日と新芽を出して来る。僕は郊外の小高い丘の上にいたのだが、フランスの新緑には、日本のそれのようには黒ずんだ色がまじっていない。ただ薄い青々とした色だけだ。その間に、梨子だの桜だののいろんな白や赤の花が点せつする。そして、それを透かして、向うの家々の壁や屋根の、オランジュ・ルウジュ色が映える。それは、ほんとうに浮々とした、明るい、少しいやになるくらいに軽い、いい景色だ。が、その景色も少しも僕の心を浮き立たせない。
 それに、よくもよくも雨が続いて降りやがった。
 もうメーデー近くになった。僕はほとんどドイツ行きをあきらめた。そしてひそかにまたパリへ出かけようと決心した。パリのメーデーの実況も見たかった。もう一カ月ばかり続けているミディネット(裁縫女工)の大罷工も見たかった。ついでに今まで遠慮していたあちこちの集会へも顔を出して見たかった。いろんな研究材料も集めて見たかった。また新装をこらしたパリの街路樹の景色も見たかった。女の顔も見たかった。

 四月二十八日の夜、僕はリヨンの同志のただ一人にだけ暇乞してひそかにまたパリにはいった。そしてル・リベルテエル社のコロメルを訪ねて、メーデーの当日、セン・ドニの集会でまた会おうということになった。
 メーデーの屋外集会や示威行列は許されてなかった。労働者のプログラムの中にもそれはなかった。共産党の政治屋どもや、C・G・T・Uの首領どもは、警官隊との衝突を恐れて、できるだけの事勿れ主義を執ったのだ。さればその屋内集会も、パリの市内ではわずかにC・G・T・Uの本部の集会一つくらいのもので、その他はみな郊外の労働者町で催された。イタリアの同志サッコとヴァンセッティとがアメリカで死刑に処せられようとするのに対する、アメリカ大使館への示威運動ですらも、共産党はむりやりにそれを遠い郊外へ持って行ったのだった。
 セン・ドニはパリの北郊の鉄工町だ。そしてそこの労働者はもっとも革命的であり、そこの集会はもっとも盛大だろうと予期されていた。コロメルはそこでフランス無政府主義同盟を代表して演説する筈だった。
 メーデーの朝早く僕は市内の様子を見に出かけた。が、パリはいつものパリとほとんど何の変りもなかった。ただ多少淋しく思われたのは、タクシーが一台も通らなかったくらいのことだ。店はみな開いている。電車も通っていた。地下鉄道も通っていた。
 そしてその電車の中は多少着飾った労働者の夫婦者や子供連れで満員だった。僕はこれらの労働者の家族が郊外の集会に出かけるのだとはどうしても考えられなかった。
「おい、きょうはメーデーじゃないか、お揃いでどこへ行くんだい。」
 僕はすぐそばに立っている男に話しなれた労働者言葉で尋ねた。
「ああ、そのメーデーのお蔭で休みだからねえ。うちじゅうで一日郊外へ遊びに行くんさ。」
 その男はあまり綺麗でもない妻君の腰のあたりに左の手を廻しながら呑気そうに答えた。そしてその右の手にはサンドウィッチや葡萄酒のはいった籠がぶら下っていた。
 僕はその男の横っ面を一つ殴ってやりたいほどに拳が固まった。
 あちこちの壁にはられてあるC・G・T・Uのメーデーのびらは、みなはがれたり破られたりしていた。そしてそのそばには「メーデーに参加するものはドイツのスパイだ」というような意味のC・G・T(旧い労働総同盟)のびらが独り威張っていた。

 セン・ドニの労働会館は、開会の午後三時頃から、八百人余りの労働者ではち切れそうになっていた。
 演説が始まった。予定の弁士が相続いて出た。ルール占領反対、戦争反対、大戦当時の政治犯大赦、労働者の協同戦線、というような当日の標語《モットオ》が、いやにおさまり返った雄弁で長々と説明された。聴衆の拍手は段々減って来る。大きな口のあくびが見える。ぞろぞろと出て行くものすらある。
 時々聴衆の中から、「もういい加減に演説をよしてそとへ出ろ」という叫び声が聞える。会の始まる前に『ル・リベルテエル』や『ラ・ルヴィユ・アナルシスト』(無政府主義評論)なぞを会場で売り歩いていた連中だ。が、それに応ずる声も出ない。そして演壇の上からはしきりにその叫び声を制している。
 僕はコロメルの演説がすんだら、一緒にどこかへ行って、ある打ち合せをする筈だった。が、そんな打ち合せはもうどうでもいいような気になった。そしてこの「外へ出ろ」の叫びを演壇の上から叫びたくなった。
 いよいよコロメルの順番になった。僕はコロメルを呼んで、君の後でちょっと一とこと喋舌りたいんだが、と耳打ちした。コロメルはそれを司会者のたぶん共産党の何とかいう男に通じた。司会者は僕のそばへ来て、何を喋舌りたいのかと聞いた。共産党や無政府党が共同で何かやる時には、いつもその時の標語についてだけ演説する約束のあることは知っていた。で、僕はただ、日本のメーデーについて話したい、と答えた。コロメルは僕を日本のサンジカリストだと紹介しただけなので、司会者は僕の名も何にも知らなかったのだ。
 コロメルの演説の間、僕は草稿をつくっていた。そしてその演説の終り頃に演壇の上の弁士席についた。コロメルがルール占領の張本人である王党の一首領を暗殺した若い女の無政府主義者ジェルメン・ベルトンの名をあげて何か言った時、演壇近くにいた四十ばかりの一人の女工らしいのが涙を流し流し、泣き声で「セエサ、セエサ」(そうです、そうです)と叫んでいた。
 僕は司会者に言った通り、日本のメーデーについて話した。
「日本のメーデーはまだその歴史が浅い。それに参加する労働者の数もまだ少ない。しかし日本の労働者はメーデーの何たるかはよく知っている。」
「日本のメーデーは郊外では行われない。市の中心で行われる。それもホールの中でではない。雄弁でではない。公園や広場や街頭での示威運動でだ。」
「日本のメーデーはお祭り日ではない。(五字削除)。(二十八字削除)。」
「(八字削除)飛ぶ。(七字削除)光る。」
 僕の多少誇張したこの「日本のメーデー」は、わずか二、三十分ながら、とにかく無事で終った。そしてさっきの四十女が時々「セエサ、セエサ」と叫んでいるのが目にも耳にもはいった。

 そして僕は演壇を下って、「そとへ出ろ、そ
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