とへ出ろ」という叫び声を聞きながら、一人でそとへ出ようとしたところへ、四、五人の私服がぞろぞろとやって来て、「ちょっと来い」と来た。

    四

 警察はすぐ近くだ。僕は手どり足どり難なく引っぱって行かれた。
 やがて警察の前で大勢のインタナショナルの歌が聞えた。叫喚の声が聞えた。警察の中庭に潜んでいた無数の警官が飛びだした。僕は警察の奥深くへ連れこまれた。
(これは後で聞いた話だが、会場の中の十数名の女連が先頭になって、ただ日本の同志だというだけで名も何にも分らない僕を奪い返しに来たのだそうだ。そして警察の前で大格闘が始まって、女連はさんざん蹴られたり打たれたりして、その結果百人ばかりの労働者が拘引されたのだそうだ。警察の中ででもなぐったり蹴ったり、怒鳴りわめいたりする声が聞えた。)
 僕は国籍も名も何にも言わなかった。旅券も身元証明書も、そんな書類は何にも持っていないと言いはった。その他の取調べに対してはほとんど何にも答えなかった。
 が、やがてそこへコロメルがはいって来た。僕を貰いに来たのだ。そして僕に旅券通りの名を言うようにと勧めて行った。そのあとへまた、司会者の男が二、三名の連れと一緒にやって来た。そしてやはりまた同じようなことを勧めた。要するに何でもないことなんだから、名さえ言えば帰されると言うのだ。
 僕はちょっとのすきを窺って、ポケットの中の手帳を司会者の手に握らした。それは一度警官の手に取りあげられたんだが、司会者等のはいって来たどさくさまぎれにまた取り返して置いたのだった。が、また取調べが始まった時、一人の私服がその手帳のないのに気がついた。そして僕を責めた。僕は知らないと頑ばった。すると、もう一人の私服が、それじゃきっとさっきのムッシュ何とか(司会者の名だ)に渡したんだろうから、行って取って来ようと言いだした。
「なあに、もう持っているもんか。誰かほかの人間に渡しちゃったよ。」
 最初の私服がそう言ってあきらめているらしいのに、もう一人の奴は「でも」とか何とか言って出て行った。そしてやがてそれを本当に持って帰って来た。最初の私服は大喜びでそのページをめくり始めた。
 それを一枚一枚よく調べて行けば、どこかに僕の偽名が出て来るのだ。少なくとも、何かの際の覚えにと思って書きつけて置いた、カルト・ディダンティテの中の出たらめ、たとえば僕の両親の名や年齢なぞが出て来るのだ。それでなくとも、それからそれへの手づるはいくらでも出て来よう。僕は警察へ引っぱりこまれるとすぐ、水を飲ましてくれと言ってうんと飲んだ上に、さらに小便が出ると言って便所へ行って、まず第一にそれを破り棄てようと思ったのだった。が、その中にはいっている名刺や紙きれを破っている間に巡査に来られて、それを果すことができなかった。
 仕方がない。まだ少し早すぎるようだが、とにかくみんなの勧めに任して、偽名通りの名を言ってしまおう。僕はそうきめて、某国の某というものだと答えた。そして旅券や身元証明書は、ドイツ行きの許可証を貰うためにリヨンの警察本部にあずけてあると事実ありのままを言った。職業は新聞記者だ。主義はサンジカリズムだ。なぜ日本人だと紹介さしたと言うから、日本には長くいてその事情にも詳しいし、日本の話をするには日本人だと言った方が効果が多かろうと思ったからだと答えた。
 それで、リヨンの警察へ問い合せられてその実際が分り、本当になんでもなくって放免されるならそれもよし、そうでなくってこの上何とかされるならそれももう仕方がないと思った。

 一応取調べは終った。もう、とうに夜になっていた。
 一人の私服がちょっと室のそとへ出たかと思うと、すぐ四、五人の荒らくれ男の制服がやって来て、いきなり僕の両手を鎖でゆわいつけて、引っぱり出した。
「いよいよ監房かな。」
 と思っていると玄関の方へ連れて行かれて、そこには一台の大きな荷物自動車と十人ばかりの巡査とが待っていた。そして、しゃにむに僕をその箱の中に押しあげて、十幾人かの巡査どもが続いて乗りあがるとすぐ自動車は走り出した。
 高い屋根のある大きな箱だ。中は真暗だ。僕は両手をゆわえられ、両腕や肩を握られながら、その片すみにあぐらをかいていた。
 折々奴等の吸う煙草のあかりで、奴等の顔が見える。どうもヨーロッパ人くさくない面つきの奴が多い。あるいはアフリカあたりの植民地の蛮民か、それとも植民地の兵隊との相の子か、と思われるような奴等だ。奴等はみな今どこかで喧嘩でもして来たような、ひどく昂奮した勢いでいた。そして何だか訳の分らない言葉でキャッキャッと怒鳴っていた。
 やがて、僕の一方の肩をつかまえていた奴が、熊のような唸り声を出して、僕の肩をこづき始めた。僕は形勢不穏と見てとって眼鏡をはずしてポケットに入れた。すると、僕のすぐ前にいた奴が、狐のような声を出しながら、僕の顔をげんこで突っつき始めた。そして、
「この野郎、殺しちゃうぞ」とか、
「支那人のくせにしやがって」とか、
「ドイツ人に買われやがったな」とか言う。
 多少はっきりしたフランス語のほかに、何のこととも分らないあるいは熊のような、あるいは猿のような、あるいは狐のような、いろんな唸り声や鳴き声が、僕の上に浴せかけられた。
 中には、サックの中からピストルを出して、それで僕の額を突くやら、剣を抜いて頭をなぐる奴まで出て来た。
 しかし行くさきはつい近くだったものと見えて、自動車はすぐにとまった。そして奴等は半分は前から僕を引きずりおろしながら、そして半分はうしろから僕をなぐるやら蹴るやらして、ある建物の中に押しこんだ。そこは同じセン・ドニの、ただ南北の区の違う、別な警察だった。そして入口のすぐ奥の広い室にはいると、そいつらが一どきに僕に飛びかかって来て、ネクタイやカラーやバンドや靴ひもを引きちぎって、そのまた奥の監房の中へ押しこんでしまった。
 僕はそのままぐっすりと寝た。
 翌日は朝早く二人の私服に護送されて、こんどは普通の自動車で警視庁へ行った。
 一日またきのうと同じようなことの取調べだ。そして僕が前にパリにいた時の宿屋をいつまでも頑ばって言わなかったら、四、五人で一緒に自動車に乗っけて、どこへ行くのかと思ったら、一々僕のもといた宿へ寄って、そこの主人やお神に顔をたしかめさせた。みんなもう知っていやがったんだ。
 そして帰って来ると、外事課の大きな室のそばに一室を構えている、たぶん課長だろうと思う、警視が、
「君は大杉栄と言うんだろう。」
 と図星をさしやがった。そこまで分っているんなら、もう面倒臭い、何もかも言ってしまえときめた。
 その警視が何かの用でちょっとほかへ行っている間に、さっき自動車で一緒に行った私服の一人が、
「日本でも、うんとメーデーをやったようだから安心したまえ。」
 と言いながら、共産党の日刊新聞『ユマニテ』のある小さな一部分を指さして見せた。「数十名の負傷者あり」というような文句がちらりと見えた。また、サン・ドニの僕のことに関する一段あまりの記事も見えた。
 それにはもとより僕の本名は出していなかった。それがどうして分ったのかよく分らなかったが、あとで聞くと、日本の大使館からあるいは僕じゃあるまいかというので誰かやって来たのだそうだ。そしてその前か後か知らないが、内務省の役人一人と兵庫県の役人一人と都合二人で、僕を探しにパリに来ていたのだそうだ。
 その私服は、まだ若い男だったが、その前後にもよくいろいろ親切にしてくれた。そこへ来る途中で買った煙草がもうなくなって困っていると、フランス出来のいやな煙草ではあるが、自分の持っているのを箱のままくれたりもした。また、あとでスペインの国境に向けて追放されようとした時にも、マドリッドよりもバルセロナの方に君等の仲間は多いんだからと言って、わざわざ地図や時間表などを探して来て、そこへ行く道筋や時間を教えてくれたりもした。
 が、その男のほかにもう二、三人代る代る僕のそばへ来て番をしている私服がいたが、そいつらの一人は実にいやな奴だった。
「おい、わざわざリヨンから出て来て演説したんだから、大ぶ貰ったろう。」
 というようなことを、たぶん戦争で受けた傷だろうと思う口のそばの大きな傷あとを妙に下卑て動かしながら、その口さきをすぐ僕の顔近くまで持って来て尋ねて見たり、また、
「おい、これはドイツで買ったんだろう。」
 と言いながら、僕がシンガポールで買って来たしかもイギリスのセフィルド製のマークのついているナイフを取りあげて、いつまでもそう頑ばっていたりした。そしてこれもドイツで買ったのだと言って、それと同じようなのを出して見せたりした。それがその証拠だと言うんだ。そして僕はドイツ政府から金を貰ってフランスの労働者を煽動しに来たのだと言うんだ。
 その他あんまりうるさい馬鹿なことばかりを言いやがるんで、お前のような奴とは話はごめんだ、あっちへ行ってくれ、と言ったら、大きな握拳を僕の顔の前に突きだして、
「このボッシュ(ドイツ人)の野郎!」
 と怒鳴っておどかしやがった。
「うん、なぐるならなぐって見ろ。」
 僕も少々癪にさわったんで、そう言って身構えしたが、さっきの私服がやって来てそいつをほかの室へ連れだした。
 本名をあかしたあとの取調べはごく簡単に済んだ。そして僕は一人の私服に連れられて、ほかの建物の中の五階か六階かの上の方へ連れて行かれた。そこで裸になって、身体検査を受けて、写真をとられるのだ。
 日本の警視庁では身長や体重を計って指紋をとるくらいのことだが、フランスではさすがもっと科学的に、頭蓋の大きさや長さを人類学的に調べた。そして指を延ばした手と前腕との長さまでも計った。写真も、横向きになって椅子に坐るとその椅子が自然に廻転して、正面に向くまでの間の全瞬間を活動的にとる仕掛になっていた。
 それが済むと、また別な建物の予審廷へちょっと行って、判事のごく簡単な取調べのあとで、またもとの建物の下の監房へ連れて行かれた。持物はみんな取りあげられたが、ただ煙草とマッチだけは持たしてくれた。
 僕はこの二つのことに感心しながら、すぐベッドの上に横になって煙草をふかしているうちにいつの間にか眠ってしまった。
 大ぶ疲れてもいたんだろうが、警察や警視庁の留置場へぶちこまれた時にはすぐ横になって寝てしまうのが、僕の長年の習慣になっていたのだ。

    五

 その翌日、すなわち三日の朝には、十五、六人の仲間? と一緒に、大きな囚人馬車二台でラ・サンテ監獄に送られた。
 ラ・サンテ監獄は、未決監であるとともに、また有名な政治監なのだ。僕がまだ途中の船の中にいた頃に、どこでだったか忘れたが、フランスからの無線電信で、首領カシエンを始め十幾名の共産党員がそこにおし籠められたことを知った。それもまだいる筈だった。また、僕がフランスに来てからも、その以前からいる幾名かとともに、十数名の無政府主義者がそこにはいっていた。

 煙草とマッチとはやはりまた持ってはいらした。そして日本だと、星形の建物のまん中のいわゆる六道の辻から布団をかつがして行くのだが、ここではいずれも薄ぎたない寝まきのシャツらしいのと手拭らしいのとを持たして行く。
 僕は監獄のひやかしのような気になって、広い廊下の右や左をうろうろ眺めながら、看守をあとにして歩いて行った。
 僕の室は第十監第二十房という地並みの大きな独房だった。二間四方だから、ちょうど、八畳敷だ。それに窓が大きくて明るい。下の幅が五尺ぐらいで、それが三尺ぐらい上までそのままで進んで、その上がさらに二尺ぐらい半円形に高くなっている。
 こんな大きな窓は、僕が今まで見たあちこちのホテルでも、一流の家のほかは滅多になかった。もっとも、惜しいことには、それがようやく目の高さぐらいの上の方から始まってはいたが。
 その後運動の時に知ったんだが、こんな窓は地並みの室だけで、二階三階四階の室々のはその半分より少し大きなくらいだった。
 窓からはすぐそばに高い塀が見
前へ 次へ
全16ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
大杉 栄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング