も思いだしはしなかった。
 そんなことじゃないんだ。ただ春の心なのだ。本当にのどかな、のんびりとした呑気な気持なのだ。いつも忙がしい、そして大勢の人との交渉の多い生活をしている僕には、実際何の心配もないたった一人きりの牢やの生活ほどのうのうするところはないのだ。もっとも、それがあんまり長かったり、時々すぎたりしては、そうばかりも行くまいが。ことに春の日の牢の中はいい気持だ。そして、それが、ちびりちびりのヴェン・ブランでなおさらにいい気持にあおられていては堪らない。へたな歌もできよう。呑気なことも考えていられよう。
 が、これは出るとすぐ、仲間の新聞で知ったのだが、その頃この牢やでこんな呑気をしていては、知らんこととは言いながらはなはだ相済まなかったのだ。
 僕がまだフランスに来る途中の船にいた頃、共産党の首領カシエン以下十数名のものが、ルール問題の勃発とともに拘禁された。そしてその中には、ドイツの共産党代議士何とかというのと、もう一人のやはり何とかいうドイツの共産主義者とがいた。みんなやはり僕と同じこのラ・サンテの牢やにいたのだ。
 ところが僕がはいってから、カシエン以下のフランスの共産主義者は保釈で釈放されたが、ドイツの二人だけは残された。二人ともフランスの法律に触れる理由は何にもなく、ただその政治上の都合でおしこめられていたので、たださえ二人は大ぶ憤慨していたのだが、ほかのものがみんな出されて自分等だけ残ったとなると、すぐ釈放を要求してハンガー・ストライキを始めた。そして、それを知った同じ牢やの政治監にいる既決囚の無政府主義者四、五名も、それに同情のやはりハンガー・ストライキを始めた。
 ドイツの二人は十幾日間頑強に飲まず食わずに過ごした。そしてほとんど死んだようになって病院に移されて、僕が放免になった二、三日後にようやくのことで釈放の命令が出た。
「僕も知っていれば……」
 と、僕は自分の太平楽を恥じかつくやんだ。
[#地付き]――一九二三年七月十一日、箱根丸にて――
[#改ページ]

入獄から追放まで

    一

 どうせどこかの牢やを見物するだろうということは、出かける時のプログラムの中にもあったんだが、とうとうそれをパリでやっちゃった。

 実は、大ぶうかつではあったが、このパリでということは、最初はあまり予期していなかったのだ。
 日本では最近にヨーロッパへ行ったことのある誰とも話はしなかったが、支那ではほやほやのフランス帰りの幾人かの人達と会った。
「なあに、フランスへあがりさえすれば、もう大丈夫ですよ。」
 その人達はみな同じようにそう言った。そして旅券なぞも、途中はもとより、マルセイユ上陸の時ですら、なければなしで通れるほどに世話がない、という話だった。
 もっとも、とにかく僕は、国籍と名だけはごまかしたが、しかし正真正銘の僕の、しかもその時の着のみ着のままの風の写真をはりつけた、立派な旅券を持っていた。その旅券からばれるというようなことはまずないものと安心していた。現にフランスの領事館でも、またイギリスの領事館でも、僕自身が出かけて行って、何のこともなくヴィザを貰って来たのだ。その旅券を、わざわざ余計な手数をかけてまで、見せずに通すほどのこともあるまいと思った。
 途中での僕の心配はもっとほかのことだったのだ。そしてそれはあらかじめ何ともすることのできないことなので、もし間違ったら仕方がないとあきらめるよりほかに仕方がなかった。
 しかし、それが無事に行って、フランスにはいりさえすればまず大丈夫だということは、僕も日本にいた時から思わないではなかった。ことにフランスの領事館へヴィザを貰いに行った時に、受付の男が僕の旅券を受取ったままちょっと引っこんだかと思うと、すぐにまたそれを持って出て来て、幾らかの手数料と引換えに渡してくれたのなぞは、その官憲の無造作にむしろ驚かされた程だった。
 このフランスの自由については、その後、船の中ででも大ぶ聞かされた。
「まあフランスへ行って御覧なさい。自由というものがどんなものか本当によく分りますよ。」
 モスクワ大学出身の女で、かつてパリに幾年か留学したことがあり、その兄が社会革命党に関係していたことから彼女までもツァーの官憲から危険人物扱いされたことがあるという、マダムNが何かの話から話しだした。彼女はしばらく日本にいて、今僕と同じようにやはりフランスへ行くのだった。
「まずどこかのホテルへ着いてですね。一番気持のいいのは、うその名刺でも本当の名刺でもとにかく名刺を一枚出しただけで、それっきり何一つ尋ねられることはないんでしょう。日本やロシアではとてもそんな訳には行きませんからね。」

 しかるに、このマダムNと一緒にマルセイユに上陸して、あるホテルに着いた時、フランスのこの自由はすぐさま幻滅させられてしまった。受付の男が活版刷の紙きれを持ちだして、そこへ何か書き入れろと言う。見れば立派な宿帳だ。しかも日本の宿帳なんかよりよっぽどうるさい宿帳だ。マダムと僕とは顔を見合した。そして二人で一々書き入れて行ったが、最後のカルト・ディダンティテ(身元証明書)の項で二人とも行きづまった。
「これは何でしょうね。」
 僕はマダムに尋ねた。
「さあ、何ですかね。」
 マダムもちょうどそこでペンを休めて考えていたのだ。
「いや、もしカルト・ディダンティテをお持ちでなければ、パスポオルでもいいんです。」
 二人は番頭にこう注意されながら、まだその「パスポオルでもいいんです」というのが何のことかよく分らなかった。が、ただそう書き入れればいいのだと分って、二人は二階の一室へ案内されて行った。
 マダムはそれだけのことでもういい加減その顔をくもらしていた。が、二人ともまだ、そのカルト・ディダンティテがどんなものかということはちっとも知らなかったのだ。
(前の「日本脱出記」の中では、パリで初めてこのカルト・ディダンティテの問題にぶつかったように言ってあるが、あの時にはまだどこをどうしてフランスにはいったかをその筋に知られたくなかったので、わざとああ書いたのだった。)
 その翌日(これも今となってはその日にちを明らかにしてもいいのだが、僕は一月五日にフランス船のアンドレ・ルボンというのに乗って上海を出て、二月十三日にマルセイユへ着いたのだった。)僕はマダムと別れて、リヨンへ行った。そこには僕の仮り国籍の同志が数名いて、僕はそれらの人達にあてた上海の同志からの紹介状を持っていたのだ。そしてヨーロッパにいる間その国籍の人間として通って行くには、まずそこの同志のいろんな厄介にならなければならなかったのだ。
 僕はパリへの旅を急いでいた。そしてこのリヨンには、またあとでゆっくり来るとしても、こんどは一晩か二晩とまってすぐパリへ立つ予定でいた。が、リヨンの同志はそれを許さなかった。
「ここには大勢僕等がいて、いろいろと便宜があるんだから、ここを君の居住地ときめて置いて、まずカルト・ディダンティテを貰って、それからどこへでも行くといい。」
 と言うんだ。僕は支那からフランスに来るという旅券しか持っていないので、さらにフランスからヨーロッパ諸国へ廻る旅券を貰う必要があった。そしてそれには何よりもまずこのカルト・ディダンティテが必要なのだ。それに、フランスに二週間以上滞在する外国人は、すべてその居住地の警察のカルト・ディダンティテを持っていなければならないのだ。そしてどこへ行くんでも、いつでも、必ずそれを身につけていなければならないのだ。それがなければ、すぐ警察へ引っぱって行かれて、もし申し訳が立たなければ、すぐさま罰金か牢だ。そしてその上になお追放と来る。
「まあ、犬の首輪と同じようなものさ。」
 と、同志のAは説明して聞かせながら、ポケットから自分のカルト・ディダンティテを出して見せた。写真もはりつけてある。両親の生年月日までもはいっている。そしてそれにフランス人が二人と同国人が二人保証人に立っている。
 このカルト・ディダンティテを貰うのに一週間ほどかかった。そしてその間に僕は、ある日、新聞で見たその晩のフランス人の同志の集会に案内してくれないかと頼んだ。が、それもやはりA等に許されなかった。そんなところへ行こうものなら、すぐあとをつけられて、カルト・ディダンティテはもとより、ヨーロッパ歴遊のパスポオルも、また僕自身のからだも、どうなるか分らんとおどされた。

 ここにおいて、初めて僕は、戦後のフランスの反動主義がどんなものかということが本当に分った。そしてこのフランスにはいればもう大丈夫どころではなく、かえって危険がすぐ目の前にちらついているように感じた。

    二

 手帳のようなものになっているカルト・ディダンティテの終りの幾ページかは、出発、到着、帰還の二字ずつを幾つも重ねた表で埋まっている。要するに、その居住地からどこかへ旅行するには、一々それを警察へ届け出て、その判を押して貰わなければならないのだ。
 が、僕はそんな面倒はよして、すぐパリへ出かけた。そしてベルヴィルのフランス無政府主義同盟へ行くと、そこは「日本脱出記」に書いたような警戒ぶりなのだ。
 さらにまた、同盟の事務所からごく近くのホテルに泊ると、そこでは普通に宿帳を書かした上に、カルト・ディダンティテの本物を見せろとまで言うのだ。
 僕はいよいよあぶないと思った。そしてリヨンから一緒に来た支那の一同志と、パリの郊外や少し遠い田舎にいるやはり支那の同志等を訪ね廻って、四、五日して帰って来ると、僕等をその宿へ案内した、そして自分もそこに下宿していたイタリアの若い女の同志が、急いで引越し仕度をしていた。警察がうるさくするので逐い出されるのだと言う。
 リヨンの同志はすぐ帰った。僕はその女と相談して、どこかもっと安全な宿を探して貰うことにきめた。そしてその晩は一緒に同盟の機関『ル・リベルテエル』の催しの民衆音楽会へ行った。会場のC・G・T・U(統一労働総同盟)事務所の入口の前は、十名ばかりの制服の憲兵が突っ立っていた。
 その翌日、ル・リベルテエル社へ行っていると、痩せこけて、髪の毛や鬚をぼうぼうのばして、今にも倒れそうになってはいって来た男があった。口もろくにはきけない。よく聞いて見ると、ハンガリイの同志で非軍備運動のために六カ月牢に入れられて、出るとすぐひそかにフランスに逃げこんだのだが、パスポオルのないためにまた捕まって三カ月牢に入れられて、今日放免とともに追放になったんだと言う。
 その晩は前から会う筈になっていたロシアの若い同志を訪ねた。いくら室の戸をノックしても返事がない。いないのかなと思いながらまた念のためノックしたら、ちょっと待ってくれという慄え声の声がする。やがて戸が開いてその同志は僕の顔を見るといきなり飛びついて来てだきしめた。どうしたんだと聞くと、いや、実は、いよいよ来たんだなと思って捕まる準備をしていたんだと言って笑いだした。この男も旅券なしで、ロシアからドイツに、そしてまたドイツからフランスに逃げて来ていたのだ。
 このロシアの同志もすぐまたドイツへ逃げ帰ろうと言うし、僕もこんなフランスに逃げかくれているんじゃ仕方がないと思って、それよりは大ぶましらしいドイツへ早く行こうときめた。僕の目的の国際無政府主義大会は、四月一日に、ベルリンで開かれることになっていたのだ。そこでは、本名を名乗らなければならないし、そこで捕まるのは仕方がないとしても、それまでにお上の手にあげられるのは少々癪だと思った。
 そこへ日本人の友人のSが訪ねて来た。日本を出て以来、日本人はいっさい禁物として絶対に会わない方針にしていたのだが、このSにだけはごく内々で僕の来たことと宿とを知らしてあったのであった。
 Sは、それじゃすぐ引越ししようと言って、新しい宿を探しに行った。そしてその日のうちに引越した。Sもしばらく田舎へ行っていたのをまた出て来たので、僕と一緒にそこへ宿をとった。
「集会にも出れなければ、ろくに人を訪ねるこ
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