来たんですが、僕もできるだけはあなたの便宜のためにここと交渉して見ようと思うんです。」
 杉村君はこう言って、何とか取りなして見たいということを詳しく話した。大使館は日本の政府から僕にいっさいの旅券を出すことを禁ぜられたのだ。したがってスペイン行きの旅券も出すことはできない。で、僕については大使館で責任を持つことにして、もう数カ月間追放を延ばして貰おうというのだ。
 杉村君はそのことをすこぶる鄭重な言葉で主事に嘆願するように言った。が、主事はいったん出た命令はどうしても取消すことができないと頑ばった。
 で、杉村君はもう一度大使館へ行って相談して来ると言って帰った。

 僕は主事に、大使館で旅券をくれなければ、よし僕が今フランスの国境を出たところで、スペインの官憲がその国内に僕を入れるかどうかと尋ねた。
「さあ、それはよその国のことだから、僕には分らない。」
「それじゃ、もしスペインで僕を入れなければ、僕はどうなるんだろう。」
「僕の知っているのはただ、君がそれでまたフランスの国境内にはいって来れば、すぐつかまえて牢に入れるということだけだね。」
 僕は主事のこの返事を聞いて、昔、語学校時代に、フランス人の教師が話して聞かしたちょっと面白い話を思いだした。それは、泥棒が国境近くでつかまえられそうになると、向うの国境内へ逃げて行って、そこから赤んべいをしたり舌をだしたりして、どうともすることのできない巡査を地団太ふましてからかうと言うのだ。そして僕は、
「そうなると僕は、スペインの牢にはいるか、フランスの牢にはいるか、それともスペインとフランスとの国境にまたがっていて、スペインの巡査が来たらその方の足を引っこまし、フランスの巡査が来たらその方の足を引っこまして、幾日でもそうしたまま立ち続けるようなことになるんだね。」
 と笑ってやった。が、主事は、
「まあそんなものさね。」
 ときまじめに済ましていた。

 僕はまた二、三時間もとの室で待たされた。そしてはたして杉村君がまたやって来たのかどうか分らなかったが、たぶんそのとりなしのせいだろうと思う、また主事室へ呼び出されて、これからすぐマルセイユへ出発しろと命ぜられた。
「誰にも会うことはできない。すぐ私服と一緒に停車場へ行って、第一の汽車で出発するのだ。」

 ガアル・ド・リヨンの停車場へ自動車で着いたのは、ちょうど八時幾分かの急行の出る少し前だった。
 私服は汽車の出るのを見送って引っ返したようだった。
 マルセイユの警察へは僕の出発と到着との時刻を電報してあるからと言うのと、生じっか立寄ってまた迷惑をかけてもと思って、リヨンには寄らずに、翌朝マルセイユに着いた。が、マルセイユでは、別に制服も私服も迎いに出ているような様子はなかった。
 僕は宿をとるとすぐ、領事館へ行った。領事の菅君はまだ新任早々で、一週間ばかり前までは杉村君の下に働いていたのだった。
 菅君はマルセイユの警察へ行って、第一の船で出帆するという命令のその「第一」というのを日本船のと念を押して来、また郵船の支店へ行って旅券なしで切符を買える談判をして来て、ちょうどそれから一週間目に出る箱根丸で日本へ帰る都合をつけてくれた。
 僕はその間にうちへも電報を打ち、パリやリヨンの友人等にも電報や手紙を出して、その日までに立てる準備をした。そして僕が何の心置きもなく安心してその準備に取りかかれたのは、僕の友人や同志が誰一人僕のまき添えとしての迷惑を大して受けていなかったことだ。

 即刻追放というんで、パリではあんなに厳重だったのだから、ここでもたぶん警戒がうるさかろうと思っていた。そして、そのうるささを多少でも避けるつもりで、ことに選んで一番いいホテルに泊った。
 が、一日い、二日いして、いろいろと注意して見ているのだが、何の警戒もあるらしい様子がない。ホテルででも取扱いに何の変りもない。そとへぶらぶらと出ても、別に誰もつけて来る様子はなく、帰ってもどこへ行って来たとも誰も尋ねない。
 領事がそれとなく警察で聞いて見たのだそうだが、実際停車場へは誰も僕を迎いには出なかったとのことだ。もっとも、ちょうどその汽車の中で大きな泥棒があって、そのために大ぶごたごたしてはいたそうだが、それが僕を迎いに出なかった理由になろうとも思われない。そして、到着早々僕は警察に出頭しなければならない筈なのだそうだが、それもわざわざ領事が行っていろいろと話しして来たのだから、この上出頭するにも及ぶまいという領事の話だった。
 こうなると、僕は裁判所下のグラン・サロンでの、色男等の話を思いださない訳には行かなかった。特別に大ぶ厳重だった僕の追放が、人なみのいい加減なものになったのだ。そう言えば、いつか、ル・リベルテエル社へ来た、ハンガリイの同志など
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