A今さらそんな無駄なことを考えても仕方がない。どこか西洋人経営のホテルを探しに行くか、あるいはここに坐り込んでBの帰るのを待つかだ。僕は長崎から上海までの暴風で大ぶ疲れていたので、そしてまたよくは分らないがBがすぐ帰って来そうな話しぶりなので、とにかく少し待って見るつもりで玄関の椅子の一つに腰を下ろした。
 すると、すぐそこへ、そとから若い支那人が一人はいって来た。僕はその顔を見てハッとした。知っている顔だ。去年まで東京でたびたび会って、よく知っているNだ。彼も無政府主義者だと言っていた。そしてその方面のいろんな団体や集会にも出入していた。しかし僕は彼がどこまで信用のできる同志だか知らなかった。そしてまた彼が支那に帰ってからの行動については何も知らなかった。僕は彼をちょうどいい助け舟だと思うよりも、今彼に見られていいのか悪いのか分らなかった。とにかく、何人によらず、知っている人間に会うのは今の僕には禁物なのだ。
 彼の方でも、僕の顔を見るとすぐ、ハッとしたようであった。が、そのすぐあとの瞬間に、僕は彼が僕の顔を分らなかったことが分った。そして僕は、そうだ、その筈だ、と初めて安心した。
 彼は取次のものと何か話していたが、Bはすぐ帰って来る筈だから、と日本語でその話を取次いでくれた。僕は彼が僕の顔を分らずに、そのハッとした態度をまだそのまま続けているのが少々可笑しかった。そしてちょっとからかって見る気になった。
「あなたはよほど長く日本においででしたか。」
 僕は済ました顔で尋ねた。
「いいえ、日本にいたことはありません。」
 僕は彼のむっつりした返事を少々意外に思った。がすぐまた、彼が排日運動の熱心家で、そのために日本の警察からかなり注意されていたことに気がついた。そして彼が僕を普通の日本人かあるいは多少怪しい日本人かと思っているらしいことは、さらにまた僕のからかい気を増長させた。
「しかしずいぶん日本語がうまいですね。」
「いや、ちっともうまくないです。」
 彼は前よりももっとむっつりした調子でこう言ったまま、テーブルの上にあった支那新聞を取り上げた。僕はますます可笑しくなったが、しかしまた多少気の毒にもなり、またあまり長い間話ししていては険呑だとも思ったので、それをいい機会にして黙ってしまった。そして彼には後ろむきになって、やはりテーブルの上の支那の新聞を取りあ
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