間はいくら、五年間はいくら、十年間はいくら、十五年間はいくら、というようにだんだんその率のあがって行く、給料や恩給の金額も、ことさらに大きく太い文字で書きならべてあった。

    六

 たぶん香港《ホンコン》からだったろう、一人の安南人らしい、白い口髯や細いあご髯を長く垂らして品のいいお爺さんが乗った。
 僕はこのお爺さんと一度話しして見ようと思っていたが、とうとうその機会がなくって、西貢かで降りてしまった。海防から乗った若い安南の学生に聞くと、もとの王族の一人で、今も陸軍大臣とか何とかの空職に坐っているのだそうだ。ロシアの旧将軍が三等で威張っているのは、ちょいと滑稽だったが、これは何だか傷ましいような気がした。
 それでもこのお爺さんは、温厚らしいうちにも、どこか知らに侵すことのできない威厳をもっていた。が、一般の安南人となると、見るのもいやなくらいに、みな卑劣と屈辱とでかたまっているように見えた。そしてこれは、安南人が他の東洋諸民族にくらべて顔も風俗も一番われわれ日本人によく似ているようなのでなおさらいやだった。
 海防や西貢の町を歩いて見ても、安南人はみな乞食のような生活をして小さくなっている。ちょっとした店でもはって、多少人間らしくしているのは、支那人かあるいはインド人だ。そして、フランス人はみな王侯のような態度でいる。
 西貢で、マダムNと一緒に田舎へ行って、路ばたのある小学校を見た。バラックのような四方開けっぱなしの建物を二つにしきって、三十人ばかりずつの子供がそこで何か教わっていた。僕等がはいって行くと、生徒は一斉に起ちあがって腰をかがめ、先生は急いで教壇から降りて来て丁寧すぎるほどにお辞儀した。それだけで僕はもう少々いやな気がした。
 先生はマダムNの質問に答えて、生徒には絶対に漢字を教えないで、一種のローマ字で書き現した安南語を教えているということを、非常な得意で話した。勿論、それは悪いことじゃない。大いにいいことだろう。が、フランスの植民政府がそうさせる意味と、この先生がそれを得意になる意味とには僕等の同意することのできないあるものがあるのだ。
 安南人の子供等は、こうして教育されて行って、だんだんにフランス語を覚えて、その中の見こみのありそうなものはフランスへ留学させられる。そして帰ると、学校の先生かあるいは何かの小役人にさせられる。僕が前
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