ア人の連中とも話しあうようになった。みんな少々ずつ英語を話せたのだ。
 そのロシア人等は二十歳前後から二十五、六歳ぐらいまでの青年で、みなハルピンから来たのだった。そしてその年かさのものは、みな兵隊に出て、まずドイツやオーストリアの軍隊と戦い、さらにボルシェヴィキの赤衛軍と戦って、ヨーロッパ・ロシアからシベリアに、シベリアからハルピンに逃げて来て、今はあるいはドイツに、あるいはフランスにそのもとの学業を続けに行くのだった。
 僕はこのロシア人等とすぐに一番いい友達になった。そして僕は、彼等のことをペチカ(ピヨトルをピヨちゃんと言うようなものだ)とか、ミンカ(ミハエル)だとか呼び、彼等もまた僕のことをマサチカ(彼等の間では僕は日本人として正一《まさいち》という変名でいた)と呼んでいた。
 みな元気で快活で、よくしゃべり、よくお茶を飲み、よく歌を歌い、よくふざけ、よく踊り騒いだ。そんなのはこのロシア人の連中だけだったのだ。
 僕も毎日そのお仲間入りをしていたが、しかし僕が一番興味を持ったのは、彼等の中の四、五人、ことにペチカやミンカがよく話しだすロシアの内乱の話だった。そしてまたことに、彼等がヨーロッパ・ロシアやシベリアのいたるところの反革命軍に加わっていながら、帝政復興とか反革命とかの思想や感情を少しも持っていないことだった。
「じゃ、なんで、反革命軍なんかにはいったんだ?」
 と聞くと、要するに彼等は、農民に対するボルシェヴィキの暴虐に憤って、農民等と一緒に武器をとって立っただけのことなのだ。
 ボルシェヴィキが食料の強制徴発に来る。農民がそれに応じない。すると、その労働者と農民との政府は、すぐに懲罰隊をくりだす。全村が焼き払われる。男はみな殺される。女子供までも鞭うたれる。そして最後の麦粉までも、また次の種蒔きの用意にとって置いた種子までも持って行かれる。山や森の奥深く逃げこんだ農民等は、いわゆる草賊となって、ボルシェヴィキに対する復讐の容赦のないパルチザンとなる。
 彼等はこの絶望的の農民と一緒になったのだ。そして、やはりまたその農民等と一緒に、帝政復興とか反革命とかの考えは少しもなしに、ただボルシェヴィキに対する復讐と自己防衛とのために、そのボルシェヴィキと戦う唯一の力だと思われた反革命軍に加わったのだ。
 これもその後フランスへ行ってから詳しく知ったことだが
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