、こうしてロシアの反革命軍は、いたるところで農民のパルチザンを併せて、ボルシェヴィキと戦った。そしてその反革命の野心を見やぶった他の農民のパルチザンとも戦った。そしてまたこの最後のパルチザンは、それと同時に、ボルシェヴィキの赤衛軍とも戦っていたのだ。そしてさらにまた、この赤衛軍の中には、まったく強制的に、そのわずかばかりの財産とともに、からだまでも徴発されて行った農民がずいぶんあったのだ。
こうしたまったく混線の内乱の中で、いわゆる革命のために、ロシアの農民は何百万とかの生命を失ったと言われている。しかもその内乱は、ほとんどみな復讐と復讐との重なりあいの、聞いただけでも身の毛のよだつような容赦のない残忍の、猛獣と猛獣との果しあいだったのだ。
四
この若いロシア人のほかに、まだ七、八人の、多少年輩のロシア人やポーランド人やチェコ人やユダヤ人がいた。細君や子供のあるものはそれを三等に乗せて、男どもだけが四等にいた。
その連中の中に、細君一人だけ三等に置いて、もう二十歳ばかりの息子と一緒にいた六十歳ぐらいの老ロシア人があった。品も何もない本当の百姓面に、両方のを合せると一尺あまりになる胡麻塩の太い口髯だけ厳めしそうに延ばして、きたない背広のぼろ服の胸に青だの赤だのの略章の勲章を七、八つならべていた。細君もきたない風の、やはり品も何もない顔の、お婆さんだった。そして、その息子は、大ぶ低能らしく、いつも口をぽかんと開いていた。
この三人はいつも三等のデッキで籐椅子の上に横になっていたが、ある日、お爺さんが僕の前へ来てこんにちはと日本語で挨拶して、あとは何だか分らないロシア語でぺちゃくちゃとやった。が、しきりに胸の勲章を指さしては何か言っているようなので、よく注意して聞くと、ヤ・ヘロ、ヤ・ヘロという言葉が時々繰りかえされる。ヤは俺で、ヘロは英雄だ。僕も仕方なしに、ダ・ダ・ヴィ・ヘロ(そうです、あなたは英雄です)とやってやった。それからなおよく聞いて見ると、ゲネラル(将官)で、日露戦争にも出たと言って、たぶんその時に貰った勲章なのだろう、胸の略章の一つを指さして見せた。
あとでペチカに聞くと、実際ヘロはヘロで、一兵卒から将官にまでなって、豪勇無双なのだという。が、ペチカの連中は誰もこのヘロのことなぞは相手にしていなかった。
相手にしないと言えば、ユダヤ人に
前へ
次へ
全80ページ中70ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
大杉 栄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング