何にも言わなかった。
 それ以来僕は、先きに気味悪かったこの老押丁の太い皺くちゃな土色の指を、食事を突き出されるたびに、ますます気味悪く見つめた。時としては、思わずそれから、眼をそむけた。
 その後幸徳等が殺された時に聞いた話だが、死刑執行人は執行のたびに一円ずつ貰うのだそうだ。そしてあの老押丁はそれをみんなその晩に飲んでしまうのだったそうだ。
 彼は、幸徳等十数名が殺されたすぐあとで、何故か職を辞した、と聞いた。
 今僕は、ここまで書いて来て、しばらく忘れていた、「あの指」を思い出し、また友人等の死骸に見た咽喉のまわりの広い紫色の帯のあとを思い出して、その当時の戦慄を新しくしている。
 かつて僕はユーゴーの『死刑前五分間』を読んだ。またアンドレーエフの『七死刑囚』を読んだ。ことに後者は、よほど後に、千葉の獄中で読んだ。その時にはたしかにある戦慄を感じた。しかし今、その筋を思い出して見ても、かつての時の戦慄の実感は少しも浮んで来ない。その凄惨な光景や心理描写が、きわめて巧妙にきわめて力強く、描き出されてあったことの記憶が思い浮べられるに過ぎない。けれどもあの二つの事実だけは、僕が僕の眼
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