昼も、膝っこぶのあたりから絶えずぞくぞくして来て、時とすると膝が踊り出したように慄える。そして上下の歯ががちがちと打ち合う。そんなになると、日に二度でも三度でも、素裸になってからだをふく。これで少なくとも一時間は慄えを止めることができる。
 冬の間の一番のたのしみは湯だ。「脱衣!」の号令で急いで着物を脱いで、「入浴!」で湯にとびこむ。
「洗体!」の号令すらもある。多くは熱くてはいれないほどの湯に、真赤になって辛抱している。それほどでないと、夕飯前の湯が夜寝る時までの暖を保ってくれない。
 稀れに、夕飯の御馳走が、鮭か鱒かの頭を細かく切ったのを実にしたおつけの時がある。その晩は、さすがに、少し暖かく眠れる。
 それでも不思議なことには滅多に風をひかない。この二月の初めに、四カ月の新聞紙法違犯を勤めて来た山川のごときは、やはり肺が悪くてほとんど年中風を引き通している男だが、向うではとうとう風一つ引かずに出て来た。そして出るとすぐ例の流行性感冒にやられて一月近く寝た。

 こういった冬の、また千葉でのある日のこと。教務所長という役目の、年老った教誨師の坊さんが見舞いに来た。
 監獄にはこの教誨師という幾人かの坊さんがいる。ところによってはヤソの坊さんもいるそうだが、大がいは真宗の坊さんだ。
 普通の囚人には、毎週一回、教誨堂とかいう阿弥陀様を飾った広間に集めて、この坊さんが御説教を聴かせるのだそうだが、僕等には坊さんの方から時折僕等の部屋へ訪ねて来る。大がいの坊さんは別に御説法はしない。ただ時候の挨拶や、ちょっとした世間話をして、監獄の待遇についてのこちらの不平を聞いて行く。
 千葉のこの教務所長というのは、その頃もう六十余りの老人で、十幾年とか二十幾年とか監獄に勤めて地方での徳望家だといううわさだった。僕にはどうしてもそのうわさが正当には受けとれなかった。何よりもまず、その小さいくるくるした眼に、狐のそれを思わせるある狡猾さが光っていた。何か話しするのでもとかくに御説法めく。本当に人間と人間とが相対しているのだというような、心からの暖かみや深切は見えない。そしていつも、俺は役人だぞ、教務所長だぞ、という心の奥底を裏切る何ものかが見える。僕はこの男が見舞いに来るのを千葉での不愉快なことの一つに数えていた。
「如何です。今日は大ぶ暖かいようですな。」
 わざとらしい、どこか
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