にこちらを見下げているような嘲笑の風の見える微笑を洩らしながら、はいって来るとすぐいつもの天気の挨拶をした。僕はこの男のいやな中にも、この微笑が一番いやだった。それに今、せっかく読みかけていたトルストイの『復活』の邪魔をされたのが、その足音を聞いて急に本をかくして仕事をしているような真似をさせられたのが、なおさらにその微笑に悪感を抱かせた。
「何が暖かいんだ。俺が今こうしてブルブル慄えているのが見えないのか。」
僕は腹の中でこう叫びながら、再びその顔を見上げた。そしていきなり、
「ふん! 綿入れの五、六枚も着てりゃ、いい加減暖かいだろうよ。」
と毒づいてやった。実際彼は、枯木のような痩せたからだを、ぶくぶくと着太っていた。そしてその癖、両手を両わきのところでまげて、まだ寒そうにその両手でしっかりとからだを押えていた。
教務所長の痩せ細った蒼白い顔色が、急に一層の蒼味を帯びて、その狐の眼がさらに一層意地わるく光った。僕は仕事の麻繩をなう振りをしながら、黙って下を向いていた。
教務所長のからだがふいと向きを変えたと思うと、彼は廊下に出て、恐ろしい音をさせて戸を閉めて行った。僕はすぐ麻繩をそばへ投って、布団の下にかくしてある、『復活』をとり出した。そしていい気持になって、さっきの続きを読み始めた。
その後数カ月の間、あるいはとうとう出る最後の時までであったかも知れない、僕はその不愉快な老教誨師の顔を見ないで済んだ。
出獄後聞くと、この教務所長は面会に来る女房にしきりに自宅へ来るようにと言っていたそうだ。そしてそれは、本人の行状について詳しく話もし聞きもしたいということであったそうだが、来るにはどうせ手ぶらでは来まいという下心があるらしかったそうだ。現に同志の一人の細君は、面会へ行くたびにお土産物を持って彼を訪うて、ずいぶん歓待されたという話だ。が、僕の女房は、早く出獄した他の同志から僕と彼との間柄をよく聞き知っていたので、とうとう訪ねても見なかったそうだ。
それから二年ばかりして、ある日の新聞に、この教務所長が収賄をして千葉監獄へ収監されたという記事を発見した。もっともその後証拠不十分で放免になったと聞いたが。
教誨師については先日面白い話を聞いた。荒畑と山川とが東京監獄から放免になるのを、朝早く、門前のある差入屋まで迎えに行った。二人とも少し痩せて顔
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