僕は誰にもそれを聞く機会がなかった。また誰にもそれを聞いて見る勇気がなかった。よしまた、それを知ったところで、それが何になるとも思った。
 おしゃべりの僕等の仲間も、その男に会った時には、みな黙ってただ顔を見合せた。いつも僕の隣りにいた荒畑は泣き出しそうな顔をして眉をぴりぴりさせた。そして誰も、その男の方をちょっと振りむいただけで、幾秒間の間でも直視しているものはなかった。
 幾度懲罰を食っても[#「幾度懲罰を食っても」は太字]
 この懲罰で思い出すが、囚人の中には、どんな懲罰を、幾度食っても獄則を守らないで、とうとう一種の治外法権になっている男がある。どこの監獄でも、いつの時にでも、必ず一人はそういう男がある。
 もう幾度も引合いに出した、東京監獄のあの死刑囚の強盗殺人君も、その一人だ。
 巣鴨では例の片輪者の半病監獄にいたのだから、さすがにそういうのには出遭わなかったが、それでも裁判所の仮監で同じ巣鴨の囚人だというそれらしいのに会った。
 長い間仮監で待たせられている退屈しのぎに、僕は室の中をあちこちとぶらぶら歩いていた。そこへ看守が来て、動かずに腰掛けてじっとして居れと言う。裁判所の仮監は、あの大きな建物の地下室にあって、床がタタキでそこに一つ二つの腰掛が置いてある。が、長い間木の腰掛に腰掛けているのは、臀が痛くもあり退屈もするので、そんな時には室の中をぶらぶらするのが僕の常となっていた。そしてそのために今まで一度も叱られたことはなかったので、ただちに僕は、その看守と議論を始めた。ついにはその看守があまり訳の分らぬ馬鹿ばかり言うので、ほかの看守等がみな走って飛んで来たほどの大きな声で、その看守を罵り出した。それがその時一緒にいたもう一人の囚人に、よほど気に入られたらしい。
「君なんかはまだ若くて元気がいいからいい、うんとしっかりやりたまえ。何でも中ぶらりんでは駄目だ。うんとおとなしくしてすっかり役人どもの信用を得てしまうか。そうなれば多少の犯則も大目に見て貰える。それでなきゃ、うんとあばれるんだ。あばれてあばれてあばれ抜くんだ。減食の二度や三度や、暗室の二度や三度は、覚悟の上で、うんとあばれるんだ。そうすれば、終いにはやはり、大がいのことは大目に見て貰える。だが中ぶらりんじゃ駄目だ。いつまで経っても叱られてばかりいる。屁を放ったといっては減食を食う。それじゃつ
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