余暇が、値打のない娯楽で費されているか、若しくは本当の休養即ち肉体上及び精神上の力の更新の為めに使われているか、と云う事は最も重大な一問題である。」
エレン・ケイの此の勧告に対しては、いかにつむじ曲りの社会民主党と雖《いえど》も、然らば女史も亦其の謂わゆる教養戦争と共に階級闘争をも鼓吹せよと云う外には、黙って傾聴する外はあるまい。又、若し本間君が単にこれだけの紹介にとどめたならば、安成君からあんな意地の悪い妙な質問を受けなくても済んだのであろう。
エレン・ケイは、本間君が云ったようには「要するに彼等労働者には惨めさと醜くさとがあるばかりである」とは云っていない。「慈母のような温情」を以て、此の「惨めさと醜くさとを人一倍深く感じ、そして人一倍深く憐れんでいる」と云う程でもない。「其処《そこ》には、人間と人間とが互に抱き合うような情味や、人間としての生の享楽などと云う事は薬にしたくもない」とも云っているようだ。それ程醜い「蛮人」に、どうして、「人類全体の直接の将来」などが握られていよう。又、どうして握らせて置かれよう。
又、エレン・ケイは、本間君が云ったようには、専門的な予備知識を持たなければ了解されない謂わゆる高級芸術とを並立させてはいない。「民衆の為めとは、労働者階級の人々の為めと云う意味であるから、其の芸術は、彼等労働者にもよく鑑賞され、理解されるほど、通俗的な、普遍的な、非専門的なものでなければならない」とも云っていない。こんな誤解され易い、又誤解する方が尤もな、余計な事は云っていない。
これを要するに、エレン・ケイはただ、ロメン・ロオランの民衆芸術論の要旨を紹介して、それに「其の一語も残さずに賛成し」更に其の一方面の休養的教養を力説して、現在の民衆の娯楽物を批評したにとどまる。そして、此の休養的教養を力説した事が、何事にも精神的で個人的で且つ謂わゆる温健な、エレン・ケイの特徴なのである。従って、本間久雄君のように、此の方面からのみしかも極くまずく民衆芸術を説くとなると、頗《すこぶ》る妙なものが出来上るわけだ。
五
然らば、エレン・ケイが「其の一語も残さずに賛成した」と云う、ロメン・ロオランの民衆芸術論の要旨はどんなものか。ロオランの民衆芸術論は主として民衆劇論である。以下出来るだけロオラン自身の言葉によって、其の要旨を述べる。
今や、旧社会は其の繁栄の絶頂を超えて、既に老朽の坂を降りつつある。或は既に瀕死の状態にあるものと見ていい。そして其の廃墟の上に、民衆の新しき社会が将《まさ》に勃興せんとしつつある。
此の新勃興階級はそれ自身の芸術を持たなければならない。其の思想と感情との已むに已まれぬ表白としての、其の若い溌溂とした生命力の発現としての、そして又、老い傾いた旧い社会に対する戦闘の機関としての、新しき芸術を持たなければならない。民衆によって民衆の為めに造られた芸術を持たなければならない。新しき世界の為めの新しき芸術を持たなければならない。若し此の芸術が出来なければ生きた芸術はない。過去のミイラが眠っている、一種の墓地のような、博物館があるばかりだ。
少しも党派心のない、無限な、永遠な、普遍な、民衆芸術と云うような事を云う人がある。これは貴い夢想である。将来の世代は、若しそれが出来れば、幾世紀かの後にはそれを実現するだろう。しかし今のところは、永遠を現在の瞬間に置いて、今日の時代と共に生きる事を努めなければならない。芸術は其の時代の渇望と引離される事は出来ない。民衆芸術は、民衆の苦痛と、其の希望と、其の闘争とを相倶《あいとも》にしなければならない。
如何なる美も、如何なる偉大も、青春や生命の代わりをする事は出来ない。諸君の芸術は老人の芸術である。吾々が、吾々の晩年に吾々の任務を果たし、吾々の共同行為の義務を尽した後に、公平無私の芸術や、ゲエテの晴朗や、純粋の美を望むのは、善い事でもあり自然の事でもある。それは人生の旅の至上の理想であり究竟である。しかし、其処へ行くだけの功蹟もなしに、余りに早く其処に到達する人々や民族は、悲しむべきものである。其等の人々や其等の民族には、其の晴朗は、無感覚即ち死の前兆に過ぎない。生は不断の更新である。闘争である。有らゆる苦難のある闘争の方が、諸君の美わしい死よりも善いのだ。
静穏な時代や芸術は如何にも望ましい仕合《しあわせ》である。しかし其の時代が乱れている時には、其の国民が闘っている時には、其の国民に味方して闘い、其の国民を奮起せしめ、其の国民の行くべき道をさえぎっている無知を打破り、偏見を斥けて行くのが、芸術の目的である。
シルレルは既に、一七九八年に、其の「ワルレンスタインの戦」の上場の際に云っている。
「今其の幕を開きつつある此の新時代は、詩人にも旧い道を去らせて、諸君をして紳士閥生活の狭い範囲から、吾々が今奮闘努力しつつある此の崇高な時代に相応しい、もっと、高貴な劇に移らせようとしている。なぜなら、独り大きな題目のみが人間の奥深い臓腑を揺り動かす事の出来るものである。今、現実其者が詩になっている。そして人々が人類の大利益たる主権と自由との為めに闘っている。此の厳粛な時期に際して、芸術も亦、鬼神を喚び起す其の劇の上に、更に大胆な飛躍を試みる事が出来るのだ。芸術は此の飛躍を試みる事が出来るばかりではない。此の実生活の劇の前に赤恥をかいて消えて失くなる事を望まないならば、是非ともそれを試みなければならないのだ。」
若し芸術が此の時代に応ずる事が出来なければ、芸術は、少なくとも生きた芸術は消滅しなければならない。又、此の新芸術を創る事の出来ない民衆は、其の新勃興階級たる運命をも放棄しなければならない。斯くして民衆芸術の問題は、民衆にとっても亦芸術にとっても、実に死ぬか生きるかの問題である。
民衆にも二種の民衆がある。其の一つは、貧窮から遁《のが》れ出て、直ちに紳士閥に心を惹《ひ》かれ、紳士閥に吸収されて了ったものである。もう一つは、此の仕合な兄弟に見棄てられて、其の貧困のどん底に蠢《うごめ》いているものである。紳士閥の政策は、此の後者を絶滅させ、前者を同化させる事にある。そして吾々自身の政策は、即ち吾々の芸術的であると共に社会的な理想は、此の二種の民衆を融合させて、民衆自体に其の階級的自覚を与える事にある。
若し民衆が第二の紳士閥となって、それと同じように其の享楽は粗雑であり、其の道徳は偽善であり、そして紳士閥と同じような愚鈍な無感覚なものになるのなら、吾々はもう民衆の事などを心配しない。声ばかり高くて空っぽな芸術や、屍骸のような人類を生き延びさす事は、吾々にはどうでもいい事なのだ。
しかし吾々は民衆の若い生命力を信ずるものである。又、人類の道徳的及び社会的の革命を信ずるものである。
此の民衆芸術に対する吾々の信仰、即ちパリの遊人等の惰弱なお上品に対して、集合的生活を表明し種族の更生を準備し促進する頑丈な男性的の芸術を建設せんとする、此の熱烈な信仰は、吾々の青年時代の最も純潔な且つ最も健全な力の一つであった。吾々は決して此の信仰を失わない。
六
ロメン・ロオランの民衆芸術論の要旨はこれで尽きる。しかしこれは要するに理想である。信仰である。此の理想や信仰の実現される前に、「民衆によって」と云うよりも寧ろ「民衆の為めの」芸術が産まれなければなるまい。
今や芸術は利己主義と混乱とに悩まされている。少数の人々が芸術を其の特権としている。民衆は芸術から遠ざけられている。国民中の最も数の多い、そして最も活力のある部分が、芸術の中に何等の表現をも持っていない。斯くして思想は甚だしく貧弱となり、芸術の為めには重大な危険が迫っている。
芸術を或る一階級の独占的享楽として了うのは、此の芸術を奪われた階級の人々をして、やがて芸術を憎悪せしめ且つ破壊せしめる事に導くものである。
芸術を救う為めには、芸術に生命の門戸を開かなければならない。有らゆる人々を其処に容れなければならない。平民にも発言権を与えなければならない。
しかし生は死と結びつく事は出来ない。過去の芸術は既に四分の三以上死んだものである。過去の芸術は生には何んの役にも立たない。却って往々生を害《そこな》う恐れすらある。健全な生の必須条件は、生の新しくなるに従って、絶えず新しくなる芸術の出来る事である。
何者もただ、其の生れた場所と時代とにのみ、善いものである。善や美が絶対的存在であるとか、又は永遠的観念であるとかは信ずる事が出来る。しかし其の表現は人心の様式によって変わる。選ばれた人々にとっての美も、民衆にとっては醜であり、又選ばれた人々の欲望と同じ正当の権利を持っている民衆の欲望に応じない事もある。二十世紀の民衆に過去の世紀の貴族的社会の芸術や思想を強いる事は出来ない。
紳士閥の批評家は屡々《しばしば》云う。民衆は自分の階級よりも上の階級のものを主人公とした小説や脚本でなければ喜ばない。富裕な社会の描写は民衆をして自分自身の貧困の倦厭《けんえん》を忘れさせるものであると。なるほど、民衆が半睡眠状態にある間は或はそうであるかも知れない。しかし、其の人格の感情が目覚め其の市民としての品位を自覚するようになれば、民衆は斯くの如き従僕芸術に恥じなければならない。そして又、民衆を尊敬する人達の義務は、斯くの如き芸術から民衆を救い出す事にある。
民衆は紳士閥芸術の残り物を集めるよりも、もっと遥かに善いしなけれければならない事を持っている。現在の芸術のお客を増やす事を努めなくてもいい。吾々は現在の芸術の為めに働いているのではない。吾々は芸術の善と民衆の善と云う事だけを考えればいいのだ。そして、現在の一般の芸術的教養を普及さす事が、此の芸術の善又は民衆の善になるなどと考えるのは、余りに傲慢な楽天観であらねばならない。
吾々の目的とするところは、平民の善ばかりでない。又芸術の善である。芸術は人間の魂の偉大さを現わすものである。人間の魂の有らゆる創造の中で、しかも此の創造があって始めて生命に値打がつくのであるが、吾々は芸術を限りなく崇拝するものである。
吾々は血の気のない芸術に生気を与え、其の痩せ衰えた胸を太らせて、民衆の力と健康とを其の中にとり入れさせようと云うのだ。吾々は人間の魂の栄誉を民衆の為めに使おうと云うのではない。民衆を吾々と一緒に、此の栄誉の為めに働かせようと云うのだ。
此の意味での民衆芸術は、其の第一条件として、それが娯楽である事である。民衆芸術は、先ず民衆の為めになるものであると共に、一日の労働に疲れた労働者の為めの肉体上及び精神上の休養でなければならない。
なまけ者の理知にすら往々多くの害悪を及ぼすデカダン芸術の最後の所産を民衆に与える事は出来ない。又、選ばれた人々の苦痛や煩悶や疑惑は、其の人々自身が保管して置くがいい。民衆には、民衆自身の苦痛や煩悶や疑惑が、其の分前以上にある。それ以上に増やす要はない。少数の或る人々が、「鼬鼠が卵を吸うように憂欝を吸う」事が好きだからと云って、此の貴族共の知識的禁欲主義を民衆に強いる事は出来ない。腐った木の上に出た大きな苔のような、誘惑的な、しかし一切の行為を殺す夢想によって害毒された、選ばれた人々の病的な感情の複雑さを平民に強いる事は出来ない。よし吾々が其の病気を吾々自身の中に養う事にどれ程の満足を感じても、吾々の其病気を民衆に感染させてはならない。吾々よりも更に健全な、更に値打のある種族をつくる事に努めなければならないのだ。
民衆は猛烈な芝居が好きだ。しかし其の猛烈は、実生活の上でもそうだが舞台の上でも、民衆が自分を其の人になぞらえて見ているヒイロオを破滅させて了ってはいけない。民衆は自分自身はどれ程諦らめどれ程気落ちしていても、其の夢想の人物の為めには非常に楽観的なものである。悲しい結末になっては堪《たま》らない。最後に善が勝つと云う皆んなの心の奥底に持っている衷心からの確信が、芝居の中で証明さ
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