来る、大きな食卓のようなものだ。しかし私は劇を迷信してはいない。劇は、貧しいそして不安な生活が、其の思想に対する避難所を夢想の中に求める、と云う事を前提とするものである。若し吾々がもっと幸福でもっと自由であったら、劇の必要はない筈である。生活其者が吾々の光栄ある観物になる筈である。理想の幸福は吾々がそれに進むに従って益々遠ざかって行く。従って吾々は遂《つい》に達する事は出来ない。しかし人間の努力が芸術の範囲を益々狭めて生活の範囲を益々広めて行くと云う事は、若しくは芸術を閉ざされた世界即ち想像の世界としないで、生活其者の装飾とするようになると云う事は、敢て云える。幸福なそして自由な民衆には、もう劇などの必要がなくなって、お祭が必要になる。生活其者が其の立派な観物になる。民衆の為めに此の民衆祭を来させる準備をしなければならない」
 近代の最大の芸術家たるワグネルも、若い率直さで、敢て斯う云っている。
「若し吾々が生を持ったら、芸術なぞは要らなくなるのだ。芸術は丁度生の終るところで始まる。生が吾々に何んにも与えなくなった時に、吾々は芸術品によって『私は斯くの如く望む』と叫ぶのだ。本当に幸福な
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