遊びに来ていて、一緒に落ち合った。彼はやはりドイツ語で、しかもそれが非常にお得意らしかった。彼はフランス語をさんざんにけなした。大久保と僕とは、何が書いてあるんだかちっとも分らない亀の子文字の彼の本をいじくり廻しながら、大いに彼をうらやんだ。
 が、学校にはいったその日の、第一番目の出来事は五十名の新入生が撃剣場でせいの順に並ばされたことで、そしてその次がそれに続いてすぐみんなの語学を決定されたことであった。希望者はフランス語よりもドイツ語の方が遙かに多かった。そして学校の方針はそれを公平に二分することであった。すなわち五十名の新入生を二十五名ずつそれぞれドイツ語とフランス語とに分けることであった。
「もっとも、今までドイツ語をやっていたものは、希望通りドイツ語をやらせる。しかしそれは、単にアベチェを知っているとか、エス・イスト何とかを知っているとかいうんでは駄目だ。試験をする。」
 せいの高い、胸とお尻のうんと張り出た、ドイツ士官のような大尉が、左の手をそのお尻の上に乗せ、右の手でねじ上った髯をさらにねじ上げながら、そのエス・イスト何とかというのを非常に流暢にやった。このエス・イスト組は僕の外にも五、六人あったようだった。が、みんな「試験をする」というのにおどかされて黙ってしまった。そしてその大尉は、恐らくは気まぐれに、すぐその場でドイツ語とフランス語の二組をつくってしまった。
 僕の名はそのフランス語の方にあった。僕はがっかりした。しかし、命令でそうきめられてしまった以上は、もうどうともすることができなかった。それに、元来語学の好きな僕はフランス語もすぐに好きになった。そして、その他の科目はすべて中学校でやったことの復習のようなものなので、僕はこのフランス語に全力を注いだ。
 本はアメリカでできたフレンチ・ブックとかいうので、英語でフウト・ノートがついていた。僕はまだ碌に発音もできないうちから、そのノートと大きな仏和辞書と首っ引きで、一人で進んで行った。そして二学期か三学期かの初めに、原書の辞書を渡されてからは、先生の言う通りに分っても分らんでもその原書の辞書ばかりを引いていた。先生はまた、この辞書と同時に、向うの子供雑誌の古いのを折々分けてくれた。「分っても分らんでもいい、とにかく読んで行け」というのが先生のモットーだった。僕は忠実に貰った雑誌の初めから終りまでを読み通した。ちっとも分らんのを二度も三度も読み通した。そして、そうこうしている間に、原書の辞書の方もいい加減分るようになり、子供雑誌も当てずっぽうに判読するようになった。

 学校にはいった幾日目かの最初の土曜日に、それまでいろんな世話をしてくれた三年のある生徒から、あしたは「国」の下宿に集まるようにと言われた。
 元来僕にはこの「国」という観念が少しもなかった。讃岐の丸亀に生れてそこを少しも知らず、尾張に本籍があってそこも碌に知らず、そして「国」というような言葉もあまり聞いたことがなかった。今までいた新発田では、ほとんどみんなが新発田かあるいはその附近の人であった。僕はそれらの人と一緒に自分を北越男子などと言っていた。しかしその越後に対しても「国」というような感じはまるでなかったのだ。
 で、この「国」の下宿というのも、よくはその意味が分らなかった。しかし、上官の言うこと、古参生の言うことはよく聞かなければならないとは、何よりも先きに教えられたことであった。そしてこの古参生には、敬礼は勿論のこと、ちょっともの言うのでも不動の姿勢をとらなければならなかったのだ。僕は気をつけの姿勢のまま「ハア」と答えた。
「国の殿様がつくってくれたんで、みんなが日曜日にはそこへ行って遊ぶんだ。」
 その古参生は僕が堅くなっているのを慰め顔に言った。が、僕にはまた、この「殿様」というのが妙に響いた。これも感情の字引の中にはない言葉だった。なるほど新発田には殿様があった。殿様という言葉もよく聞いた。が、その言葉の中に盛られている感謝や崇拝の感じは、少しも僕に移って来なかった。そして一、二年前に、何とか三十年祭とかいうんで、その殿様夫婦が東京からやって来た時、僕は彼等の通ったあとの麝香か何かの馬鹿に強い香に鼻をつまんだ、そのいやな感じがあるだけだった。しかしその殿様のお蔭で、日曜日の遊び場があるというのは、うれしかった。
 その下宿というのは学校から近いあるお寺だった。その本堂の広間に古参生と新入生と四、五十名集まった。
「君等はまず国の者同士の堅い団結を形づくらなければならない。そしてその団結の下に将校生徒としての本分を発揮して行かなければならない。断じて他国のものの辱かしめを受けてはならない。」
 山田という、小作りのしかし巌丈なからだの、左肩を右肩よりも一尺も上にあげた男が「訓戒」し出した。僕はそれを聞きながら、新発田で僕が一番えらいと思っていた不良連の首領の、井上というのを思い出した。そして「ここにも仲間がいるな」と僕はすぐ感じた。
 山田の「訓戒」も、それに続いたまだ四、五人の「訓戒」も、要するにみなこの「断じて他国のものの辱かしめを受けてはならない」ということに帰着した。第一期生すなわち当時の三年生は、愛知県人と石川県人とがいずれも十名ばかりずつで互いに覇を争って来た。第二期生では愛知県人の方が少し数が増えた。そして僕等の第三期生では、愛知県人すなわち国のものが二十六名という絶対多数を占めたのであった。が、頭数が増えたからといって、油断はできない。また、こんなに多い頭数をかかえていて、それで負けてはなおさら見っともない。そこで団結を堅くしなければならない、と言うんだ。
 僕は何で石川県人と愛知県人とがそうして争わなければならないのかは分らなかった。しかし、誰一人知っているもののない中にはいって、こうして「国のもの」という特別な友人がすぐできたのは、何よりもうれしかった。そしてこの友人等の敵になる石川県人が訳もなく憎らしくなった。
「訓戒」が済むと菓子が出た。菓子屋の箱に山のように盛った餅菓子が出た。それを食ってしまうと、こんどはちょっとした肴に酒が出た。本当の牛飲馬食だ。もともとあまり酒は飲めない僕も、みんなの勢いに駆られて、多少の盃を重ねた。そして山田等の詩吟につれて、みんなの驚きのうちに「宗次妙齢僅成童」などと吟じ出した。それで僕はすっかり山田等の「仲間」になってしまった。

   二

 第一期生は、最初の後輩である第二期生に対しては、ずいぶんひどく威張った。またずいぶんひどくいじめた。が、第三期生の僕等に対しては、ずいぶんあまくしてくれた。そして僕は、たぶんそんなのは僕一人だったろうと思うが、すぐにこの先輩から「仲間」として可愛がられるようになった。
 最古参生たる第一期生の「仲間」には、学校の中では、どんな悪いことでも無事にやれた。たとえば煙草は、もし見つかれば営倉ものだった。しかしそれも、彼等だけには、安全な場所があった。国の先輩は僕をそこへ連れて行くことは最初遠慮していた。が、他国の先輩、ことに東京から来た先輩がすぐに僕をそこへ連れて行った。
 また、これは見つかれば軽くて営倉、重くて退校の処分に遇うのだが、夜みんなが寝静まってから左翼の方の寝台へ遊びに行くこともやはり東京から来た先輩に教わった。「仲間」の仕事というのは、これが一番主なことであったのだ。
 この東京から来た先輩の中には、もっとも「仲間」ではなかったが乃木将軍の息子もいた。からだは第一期生じゅうで一番大きかったが、学科は一番できなかった。そしていつも大きな口をにやにやと微笑ましていた。

 が、そんな「武士道の迷行」へばかりでなく、僕はまた本当の武士道へもまじめに進んで行った。
 何とかいう文学士の教頭が、倫理の時間に、武士道の話をした。それは、死処を選ぶということが武士道の神髄だ、というのだった。
 僕はその話にすっかり感服した。そして僕の武士道を全うするためには、僕自身の死処をあらかじめ選んで置かなければならないと決心した。それ以来僕は古来の武士の死にかたをいろいろと研究し出した。何かの本を読んでは、これはと思う武士の死にざまを、原文のまま写し取った。そしてその写しは、たしかに一巻の書物くらいにはなっていた。
 そのいろんな死にざまの中で、僕の心を一番動かしたのは、戦国時代の鳥井強右衛門のはりつけだった。というよりもむしろ、そのはりつけの図に題した、誰だかの「慷慨赴死易、従容就死難」という文字だった。
「よし、俺も従容として死に就いて見せる。」
 僕は腕を扼して自分で自分にそう誓った。
 やはりこの教頭の話で、もう一つ覚えていることがある。それは、遼東半島還附の勅語の中の、「報復」という言葉の解釈についてであった。その言葉の前後は今は何にも覚えてない。たぶん「臥薪甞胆して報復を謀れ」というような文句だったろうと想像する。この「報復」というのは、表むきは何とかの意味だが実は復讐のことだ、と言うんだった。そして僕はその表むきの意味が何であったかは今でも思い出すことができないほど、そのいわゆる本当の意味をありがたがった。

 何月か忘れたが、たぶん初夏の頃だったろうと思う。平壌占領記念日[#底本では「紀念日」]というのがあった。
 僕はその日の朝飯に初めて粟飯というものを食わされた。ちょっと甘い味がしてうまいと思った。おかずは枝豆と罐詰の牛肉が少々とだった。名古屋の第三師団全部が、その朝はこの御馳走だったのだ。
 当直の、前にも言った北川という大尉が、食堂でこの御馳走のいわれを話した。平壌を占領した晩だか朝だかの、これが咄嗟のお祝いの御馳走だったのだそうだ。
 食事が済むとみんなは講堂に集まった。そこには、正面に大きなアジア地図が掛かっていて、支那の遼東半島が日本と同じ赤い色で色どられていた。学校じゅうの武官と文官とが左右にならんだ。そこで今言った教頭の「報復」の話が始まったのだった。
 教頭の講演が済むと、こんどは名古屋の東の町はずれにあたる、陸軍墓地へ連れて行かれた。北川大尉を始め学校の他の士官等は、その多くの戦友の墓をここに持っていた。そして彼等はその墓の一つ一つについて、その当時の思い出を話して聞かした。
「これらの忠勇な軍人の霊魂を慰めるためにも、われわれは是非とも報復のいくさを起さなければならない。」
 士官等の結論はみな、いわゆる三国干渉の張本であるロシアに対する、この弔い合戦の要求であった。僕等はたぎるように血を沸かした。

 間もなく、僕は初めての暑中休暇で新発田へ帰った。
 ある日ふと父の机のひき出しを開けて見たら、「極秘」という字の印を押した、状袋が出て来た。封が切ってあるので僕はすぐ披いて見た。それは、当時の参謀本部の総長か次長かの何とかの(四字削除)ら各師団長および各旅団長に宛てたもので、(十七字削除)、そのつもりで将校や兵の教育をしろ、という命令風のものであった。
 僕はすぐに指を折って数えて見た。三十七年と言えば、僕がちょうど少尉になった頃のことだ。僕は躍りあがって喜んだ。
 父の机の上には、ロシア語の本だの、黒竜会の何とかいう雑誌だのが幅をきかしていた。
(が、ここまで書いて来て、この記憶があるいは幼年学校入学以前のことでなかったかという疑いが出て来た。それは、これが片田町の家の、父の室での出来事であったように思われるからである。その頃から父は旅団副官をやっていた。幼年学校にはいるその年か前年かに、僕の家は尾上町に引越した。どうもこの尾上町でのことではなかったようだ。すると、ロシアに対する報復ということを教えられた時にそれを思い出して、そしてその思い出がかえって後の事実のように記憶されて来たのかも知れない。しかし、僕がその(四字削除)を見て、少尉になってからのことだと喜んだのは、確かに事実である。そして僕は、この「極秘」ということについてすでに何か知っていたものと見えて、その喜びを自分一人の胸の中にたたみ込んでかつて誰にも話したことがなかった。)

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