虎公にも誓ったように、自分の写真の裏には未来の陸軍元帥なぞと書いていたが、試験のための勉強はちっともしなかった。そして見事に落第した。
五
その夏初めて一人で旅行に出た。
最初は東京までのつもりで、十円もらって出かけたのだったが、それが名古屋までとなり、大阪までとなって、大旅行になってしまった。
越後はまだ直江津までしか鉄道がなかったので、新潟から船でそこまで行った。汽船や汽車に乗ったのは勿論、そんなものを見たのも、それが覚えてから初めてのことだった。
山田の伯父が四谷にいた。威海衛で戦死した大寺少将の邸を買って、そのあとを普請したばかりのところだった。伯父は大佐で近衛の何連隊かの連隊長をしていた。
「よく一人で来た。」
伯父は僕の頭を撫でて、父でもめったにしてくれないほどの可愛がりかたをしてくれた。伯母も「栄、栄」と言って自分のそばを離さなかった。
従兄が二人いた。弟の哲つぁんは病気で学習院の高等科を中途でよして、信州の方へ養蚕の実習に行っていた。女中どもはこの哲つぁんのことを若様と呼んでいた。兄の良さんは中尉になったばかりで、綺麗な花嫁のお繁さんと一緒に奥の方の離れにいた。士官学校の教官をして、陸軍大学校の入学準備をしていたのだ。
女中どもは僕を越後の若様と言った。そして僕が何かするたびに何か言うたびに袂で口を蔽うては笑いこけていた。お繁さんは(僕はお姉さまと呼んでいたが)そのたびに美しい目で女中どもをにらみつけるようにしていたが、やはりその可笑しさを隠しきることはできなかった。
洋食の御馳走が出た。越後の若様はどうしてそれをたべていいか分らなかった。新発田にはまだ洋食屋もなく、家ででも洋食なぞをたべることがなかった。で、みんなのする通りにビフテキか何かをようやくのことでナイフで切って、それを口に入れたが、切りかたが大きすぎたので口の中で一ぱいになって、どうともすることができなかった。みんなは笑った。そしてお繁さんだけは、いつまでもいつまでも、僕の顔を見ては思い出すように笑っていた。
僕はお繁さんを日本で一番の美人だと思った。お繁さんの姉さんも綺麗だった。そしてこの姉さんは、田中という騎兵大尉の、陸軍大学校の学生のところに嫁いていた。
僕は来年は必ず幼年学校の試験に及第してうんと勉強して陸軍大学にはいるんだときめた。
お繁さんの里の、飯倉の末川という家へも行った。山田の家の心地よさに酔うていた僕は、末川家のさらに幾倍もの贅沢に少々驚かされた。
家は上と下とに二軒あった。下は妾宅で上は本宅だった。長男が一人本妻の子でしかもそれは馬鹿で、あとはみな男も女も綺麗な、もと烏森とかにいたという妾の子だった。お繁さんもその姉さんも勿論この妾の子だった。お繁さんの下にもまだ女の子が二人いた。そして下の家には妾とそれらの女の子とだけがいた。みんなはその妾を自分のほんとうのお母さんを、栄ちゃんと呼んでいた。
食事時には、ふだんは男ばかりいる上の家へみんなが集まった。僕も行けばきっとこの上の家の、西洋室の応接間にはいってソファの上に横になっていた。
僕はこの家で初めて電話というものを知った。また、お繁さんの姉さんの手で初めてピアノというものの音を聞いた。僕はこの家のみんなが、その綺麗でそしてお上品な中に、どこかしら冷たいものを持っていることに気がついた。が、それでもやはり、その贅沢な生活を味いに、時々遊びに行かない訳には行かなかった。
末川家は鹿児島の家老の家柄で、その主人はもと海軍の主計監とかをしていたと聞いた。そして、その頃は実業に関係していたようだった。山田家では最初この家との縁談があった時、妾の子ではと一時躊躇したのだそうだが、川村大将とか高島中将とかが中にはいって、無理にもらわしてしまったのだのとかと聞いた。その後、今の皇太子や皇子達が川村大将の家にいた頃、良さんの子供等はよくそこへ遊びに行って、熊だの象だののおもちゃをもらって来た。
良さんは今少将でどこかの旅団長を勤めている。そしてお繁さんの姉さんの方の田中は、中将になって今ワシントンの太平洋会議に陸軍代表の主席として出ている。ついでに言うが、山田の伯父は、とうに中将で予備になって、今は和歌山に隠居している。
名古屋と大阪とでは、名古屋では父方の親戚を、大阪では母方の親戚を歩き廻った。
が、そのどちらでも、商家や農家ばかりなので、そしてつましい家ばかりなので、一向面白くなかった。そしてすぐまた東京に帰って、一カ月あまり遊んでいた。
六
この旅行は僕に金を使うことを覚えさした。それまで僕は、小遣銭というものは一文ももらったことがなく、いるものは何でも通いで持って来たのであった。しかしもうそれでは済まなくなった。
中学校は新発田から五十公野へ行く途中の、長い杉並木の間に新しい校舎ができた。そしてその並木路の入口にある小料理屋風の蛇塚屋というのが、僕等不良連の間にスネエクと呼ばれて、みんなの遊び場でもありまたいろんな悪事の本拠地でもあった。みんなはよく学校をエスケエプしてはそこへ行った。
僕は母の財布から金を盗むことを覚えた。母はいつも財布をどこかへ置きっぱなしにしていた。そしていり用のたびにあちこちとそれを探していた。そんなふうで、自分の財布にいくらはいっているのかもよくは知らなかったようだった。僕はそれをいいことにして、二、三十銭から五十銭くらいまでをちょいちょいと盗んだ。
が、だんだん、そんなことではとても追っつかなくなった。そしてとうとう僕は父からもらった時計を売ってしまった。それは銀側の大きな時計で、鍵を真ん中の穴に入れてギイギイと廻す、ごく古い型のものだった。
それがどうしてか母に知れた。
「時計を持ってお父さんのお室へおいで。」
僕は持って行く時計はないのだから、仕方なしにただうんと叱られる決心だけを持って、父の室へ行った。
父の裁判がはじまった。僕は売ったと答えた。が、その金の行方については、どうしてもはっきり言うことができなかった。それは、もしスネエクのことを言えば、そこでいろんな悪事、ことに例の義兄弟のことなどが知れる恐れがあったからだ。
僕は父と母とにうんと責められた。うんと叱られた。しかし、言えないことはやはりどうしても言えなかった。
その冬、この不良連の親分の、その頃の最上級の四年と三年とのものから一大事を聞いた。それは三好校長が組合会議から排斥されて、不信任案の決議をされるということだった。
僕等の中学校は、新発田町外四十何カ村の組合立で、その組合の会議というのがあったのだった。この組合会議が、往々その職分の経営のことを超えて、教育方針にまで差出口をするということは聞いていた。そしてそのたびに校長がそれを峻拒したということも聞いていた。
僕等は組合会議がどんな差出口をしたのかも少しも知らなかった。また、その不信任案というものの内容も少しも知らなかった。そしてまた、その間にわだかまるいろんな事情というようなことも少しも知らなかった。が、とにかく組合が不埓だときめてしまった。そして校長擁護の一大運動を起すことにきめた。
翌日すぐ、長徳寺というのに学生大会が開かれて、二年三年四年の全生徒は校長と運命をともにするという満場一致の決議をした。
この騒ぎは学年試験を前に控えて一カ月ばかり続いた。そして最初の同盟休校というのが同盟退校の決議にまで進んだ。
もうこんな学校に用はないというので、ガラス戸は滅茶苦茶にこわされた。そして生徒控室にあった机や椅子は、ほとんど全部火鉢の中のたき木になってしまった。
ある先生は、組合と内通しているというので、夜車で練兵場を通るところを袋だたきにされた。
ある日父と母とは茶の間の火鉢のそばへ僕を呼んだ。
「この頃お前はちっとも学校へ行かんで騒いでいるそうだが……」
父の話は、組合から生徒の父兄に送って来たものによって、多少校長を批難して、明日からでも学校へ出ろというようなことであった。
「いやです。」
僕はただ一言そう言ったきりで、席を蹴って起ちあがった。
「あの子はいったん何か言いだしたら、何があっても聞かんのですから、どうぞそのままにほおって置いて下さい。」
母はしきりに父をなだめて、懇願しているようだった。
しかしこの騒ぎは、組合で不信任案を取消すということと、校長が辞職するということとで治まって、生徒は校長の懇請でようやく学年試験を受けることになった。
三好校長は深田教頭と一緒に、長野の中学校へ行くこととなった。その送別会が仲町の何とかという料理屋の広間で開かれた。校長は大酒家だった。みんなに一合ばかりの酒がついた。校長は初めから終りまでその四角な顔をにこにこさせていた。教頭はお得意のいい声で、その郷里の白虎隊の詩を吟じた。
そして校長がいよいよ出発する時には、全校三百余の生徒が、校長の橇を真ん中にして降り積る雪の中を七里の間、新潟まで送って行った。
そのあとへ、広田一乗という、名前から坊主臭いしかしハイカラな新しい文学士が来た。が、この新校長は、来る早々校友会の席上で記憶術の実験か何かをやって、すっかり生徒の評判を悪くしてしまった。そして、生徒がみな素足ではいる習慣になっていた、御真影を安置してある講堂へ、校長が靴ばきのままはいったとかいうので、危く排斥運動が起りかけさえした。
その春、僕は二度目の幼年学校の入学試験を受けた。
そしてその最初の日に、もう少しで身体検査ではねられるところだった。去年はよく見えた検査の符号のようなものが、下の二、三段のほかはみなぼんやりして、上があいているのか下があいているのかよく分らなかった。
若い軍医は首をかしげて奥の方の室へはいって行った。そして、僕が子供の時から何かの病気の際にはいつも世話になっていた、平賀という一等軍医を呼んで来た。
「これはことしはどんなことがあっても入れなけやならないんだ。」
平賀軍医はそう言いながら、僕の目の検査をし直した。そして暗室へ連れて行ったり、いろんな眼鏡をかけさして見たりして、要するに合格にしてしまった。
学科の方は、別に何の勉強もしなかったのだが、高等小学校卒業程度の試験なんだから、やすやすとできた。
そして官報で及落が発表される少し前に、山田の伯父から、「サカエゴウカクシユクス」という電報を受取った。
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自叙伝(四)
一
幼年学校は、東京に中央幼年学校というのがあって、そして当時の六個師団の各師団司令部所在地に地方幼年学校というのがあった。中央は本科で地方は予科だ。ある師団、たとえば第一師団の管轄に本籍を持っているものは、その師団司令部所在地の、すなわち東京の地方にはいった。そしてそこで三年間いわゆる軍人精神を吹っこまれて、各地方のものがみんな東京の中央に集まるのだった。
僕は僕の本籍地の名古屋の幼年学校にはいった。
父は、後に僕が社会主義者になったのを、僕のフランス語のせいにしていた。フランスは革命の国だというごくぼんやりした理由からだ。僕もそれは、もっと細かなそしてもっと込みいった理由から、部分的に承認する。が、僕のそのフランス語というのは、この幼年学校で、しかも命令的にはじまったのだった。
東京の地方にはフランス語とドイツ語とロシア語とがあった。が、その他の地方には、フランス語とドイツ語としかなかった。そして入学志願者は、その願書の中に、その中のどれか一つを希望語学として書き入れて置くのだった。
僕は、フランスはもう旧い、これからは何でもドイツだというので、ドイツ語を選んだ。そして父を覚束ない先生にして、一カ月ばかりかかって、たしかヘステルの第一読本をあげていた。
名古屋へ行く途中、東京で、一、二年前から上京していた大久保を訪ねた。彼も去年は落第して今年は東京の地方に及第したのだった。彼もやはりドイツ語を希望していた。そこへ、熊本の地方の先輩である石川が、休暇で東京に
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