三
十幾番かではいった僕は、学年試験の結果七、八番かに席順があがった。
が、この学科の上で席順を争うということは、中学校以来僕にはまるでないことだった。一番とか二番とかいう奴は、気のきかない、糞勉強の馬鹿だときめていた。「なあに、実力では遙かに俺の方が上だ」とひそかに威張っていた。そしてただいい加減上の方の席にいることで、十分満足していた。で、学科は、前にも言ったように好きな語学に耽るほかは、ことさらに勉強する必要もなくまた碌に勉強もしなかった。
しかし腕力とか暴力とか、またはそれにもとづく勢力とかの上では最初から決して人後に落ちなかった。もっとも単なる腕力では、せいの順で右翼から十四、五人目の僕は、とても一番とは行かなかったろう。が、暴力とか勢力とかいうことになれば、それには大ぶ趣きが違って来る。それに僕には愛知県という絶対多数の背景があった。
古参生等の「仲間」にはいった僕には、まず同級生等の間で傍若無人の振舞いをした。僕と同じ寝室のものや左翼の寝室のものは黙っていた。が、中の寝室のものの中に、中村という男がいた。東京のもので、口先きばかりでなく、真から元気のいい男だった。そいつが、僕がそいつの隣りの何とかいう男のところへ夜遊びに行くのを、愚図愚図言い出した。まだ外にも二、三人それに同ずるものがあったようだった。ある晩僕は、何かのことからその中村を、そいつの寝室のみんなの見ている前でなぐりつけた。奴は腕まくりしながら黙って、なぐられて笑っていた。それでそいつは友達になってしまった。この中村はその後肺を悪くして死んだ。そしてその弟の彝[#読みは「つね」]というのが第五期にはいって来た。西洋画のあの中村彝君がそれだ。
また、同じ寝室で、僕よりも右翼に佐藤というのと河野というのとがいた。どちらも、武揚学校という名古屋での陸軍予備校から来たもので、その友達が多かった。国の名古屋のものは、大がいその友達だった。中にも、僕よりも右翼にいた浜村というのと坂田というのとがよほど親しかった。その佐藤と河野とがちょいちょい僕に敵意を見せだした。そして浜村や坂田は、そんな時には、僕の敵だか味方だか分らん変な態度を取った。その中のどの一人でも僕には強敵なのに、こう大勢で組んで来られてはとても堪らなかった。さっそく僕は浜村と坂田とを呼んで、「佐藤と河野との二人と決闘するが、君等の態度をはっきりきめろ」と言った。二人は中立を誓った。で、僕はすぐに、まず大きな方の佐藤を呼び出した。同期生じゅうで一番大きな男で、撃剣も一番うまかった。器械体操場の金棒の下へ連れて行って、そこでいきなり殴りつけた。げんこは眼にあたった。彼はほろほろ涙を流して、黙ってその眼を押えていた。そこへ浜村と坂田とが心配して見に来た。そして二人の中へはいった。河野はすぐに好意を見せて来た。そして五人は、五人組をつくって、何でもの悪いことの協同者となった。
四、五年前に、ふとこの佐藤が訪れて来た。子供の時の友達だというので、誰かと思って玄関へ出て見たら、昔のままのせいの高い顔一ぱい濃い髯の彼だった。連隊長とかと喧嘩して予備になったんだそうだが、今になって止されるくらいなら、あの時分一緒に退校されるんだったなあなどと、職業の世話を頼みながら今の僕をうらやんでいた。その後南米行き移民の監督か何かにありついたとか言っていたが、どうしたか。そしてついうっかりして、昔僕が殴った眼の中の赤い疵[#「疵」は底本では「やまいだれ+比」]のあとが、まだ残っているかどうかも見落してしまった。
撃剣は佐藤の次が僕だった。器械体操は佐藤と河野と僕とが相伯仲していた。が、駈足は僕が一人図抜けて早かった。僕等の班長をしていた河合という曹長が、これも駈足をお得意としていたが、いつも口惜しがりながら僕のあとについて来た。
学科の済んだあとで、毎日そんな遊戯をやらされていたが、そのほかにもよくフットボールや綱引をやった。そしてこの二つの遊びでは、班長が組を分けるのに困ってしまった。最初前列と後列とに分けた。すると幾度やっても僕のいる前列が勝った。で、こんどは、僕一人だけを後列の方の組に廻して見た。後列が勝った。フランス語の組とドイツ語の組とに分けても見た。が、それでもやはり僕のいるフランス語の方が勝った。仕方なしに班長は「君はそばで見ていろ」と言って、僕を列の中から出してしまったこともあった。
が、困ったのは遊泳だった。
最初の夏は、伊勢のからすという海岸へ遊泳演習に行った。
先生は観海流の何とかいう有名なお爺さんで、若い時には伊勢から向う岸の尾張の知多半島まで、よく泳いでは味噌を買いに行ったという話のある人だった。学校にはこの伊勢出身で、観海流の三里や五里という遠泳に及第したものもいた。ことに佐藤などは一番の名人だった。その他にも、名古屋出身のものは大ていみなこの観海流を泳いだ。
子供の時からよく川遊びや海遊びはやったが、ぱちゃぱちゃ騒ぎ廻るほかにまるで泳げなかった僕は、実に閉口した。そして第一日目の試験に力一ぱいでようやく二、三間泳いで、一番下の丙組へ編入された。
古参生や同期生の助手連が、僕等の足首を握って、その観海流というのを教えた。が、僕はそれを教えられるのが癪なのと、足首を握られるのがいやなのとで、いつも逃げ廻っては我流の犬泳ぎで泳いでいた。
それでも一週間目の第二回の試験には、僕はその犬泳ぎで千メートル泳いで、甲組にはいった。そして二週間目の最後の試験には、やはりその犬泳ぎで最大限の四千メートル泳いで、来年は助手ということになった。
その来年には知多半島の大野へ行った。僕は名は助手でも、観海流も何にも教えることはできなかった。そして自分の受持った丙組の幾人かをただ勝手に遊ばして置いた。が、二週間目の最後の試験の時には、その中から一人、やはり我流の犬泳ぎで四千メートル泳ぎ通したのが出た。それは僕が可愛がっていた第四期生のまだほんの子供で、途中で泣きそうになるのを絶えずそばから激励して、無理やり引っぱって行ったのだった。そしてその子は、本当のゼロから出立してそこに到達した、その年のたった一人として好成績を歌われた。
最近、汽車の中でこの男に会ったが、参謀肩章なぞをさげて立派な士官になっていた。はじめ僕はすぐ前にいるのにそれと気がつかなかったが、向うで名刺を出して見せて、「御存じでしょうな」と言われたのでやっと分った。やはり昔のように、「ハア、ハア……何とかであります」と上官にもの言うように話していた。その時にはまだ大尉だったが、この頃ではもう少佐になったろう。
四
僕の腕白は二年になってますますひどくなったが、それと同時にまた僕の頭を圧える奴が出て来た。それは、第一期生が出て行ったあとで初めてその頭をあげた、第二期生だった。
僕は第一期生の「仲間」と一緒に、外套を頭からかぶって、第二期生の左翼の寝室を襲うたこともあった。また第二期生の「少年」をちょいちょいからかったこともあった。そんなことは古参生たる第二期生どもには非常な憤慨であったに違いない。そしてその少年の一人のいた石川県人どもが、まず僕を目のかたきにしだした。
彼等は僕の「生意気」な事実をいろいろと挙げて、国の第二期生等に僕の処分を迫った。国の第二期生には浅野という「仲間」の首領がいた。が、彼にもそれをどうともすることもできなかった。また、国の第二期生の中にもひそかに僕を憎んでいる奴等があった。その結果僕はしばしば殴られた。大勢で取り囲んで、気をつけの姿勢をとらして置いて、ぽかぽか殴るんだ。石川県の奴等もよくこうして殴った。
この制裁にはいっさい手を出すことができなかった。古参生には反抗することができないのだ。僕はただ倒れないだけの用心をして黙って打たれていた。倒れると、蹴られる恐れがある。が、げんこで殴られるだけなら高が知れている。そして僕は、できるだけ落ちついて、そのげんこの飛んで来るたびに一つ二つと腹の中で勘定していた。
その勘定のできる間は、どんなにひどく打たれても我まんができた。が、どやどやと大勢が一ぺんにのしかかって来て、どいつがどう殴るんだか分らなくなると、我まんができなくなった。ことに、後ろや横からそっと蹴る奴があったりすると、そしてこれは実によくあったのだが、もうどうしても我まんができなかった。が、気をつけの姿勢のまま手出しをすることのできない僕は、ただ黙ってそいつを睨みつけることのほかに仕方がなかった。
前に班長という言葉を使ったが、これは下士官で、生徒監の士官を助けて、生徒の監督をしていた。それが一級に曹長一人と軍曹一人といた。
河合軍曹は僕を可愛がって、大がいのことは大目に見てくれた。よくいろんな犯行を見つけたが、いつも大きな声で怒鳴るだけで、めったにそれを生徒監に報告することはなかった。
が、間もなくこの河合軍曹が転任になって、何とかいうばかに長っ細い曹長が来た。この曹長はよく妙な手帳をひろげては、自習室を廻ってみんなの顔とそれを見くらべていた。ある時僕はそっとその手帳をのぞきこんで見た。そこには、勇敢とか粗暴とか寛仁とか卑劣とかいうような言葉がならんでいて、その下に二、三行ずつその説明らしい文句がついていた。曹長はきっと、この手帳の中にある二字ずつのどれかの言葉によって、みんなの性格をきめていたのだ。
曹長は来るとすぐ僕を変な目で見だした。またこの曹長が来ると同時に、それまで僕等が坊ちゃん軍曹だとかガルソン軍曹だとかあだ名していたほどおとなしかった、もう一人の班長の稲熊軍曹が、急に意地悪くなり出した。そして二人で僕のあとを嗅ぎ廻っては、何やかやと生徒監に報告した。
その結果はほとんどのべつ幕なしの外出止めとなった。一週間にたった一日の日曜の外出を止められるんだ。それも、汚れた靴下を戸棚の奥に突っこんであったとか、昼、寝台に腰かけていたとか。その他、今ちょっと思い出せないような馬鹿馬鹿しいことばかりでだ。
二階の僕等の寝台の向いに下士官等の室があった。僕等はよくそこへ、煙草がなくなると、夜盗みに行った。夜は週番の下士が一人その下の室に寝ていた。
ある時もみんなの煙草が切れてしまった。河野が一番に盗みに行った。その次に僕が行った。が、僕はその室へはいって行って机の引き出しに手をかけた時、「コラ」と言って捕まってしまった。それは週番の稲熊軍曹だった。
僕は当直の生徒監の室へ引っぱって行かれた。
「実は数日前から、もっともその以前にもちょいちょいあったのですが、下士室でみんなの煙草がよくなくなりましてことにきのうは私の金が少々なくなったのです。で、きょうは是非その犯人を取りおさえようと待ち構えていましたが、はたしてこの大杉が室へ忍びこむのを見まして、今取りおさえて来ました。」
軍曹は勝ち誇ったようにして吉田中尉に報告した。中尉は僕等第三期生の受持で、国の出身で、そして僕を可愛がっていた唯一の士官だった。中尉は青くなった。そして軍曹には詳しい報告書を書いて来るようにと言ってその出て行ったあとで僕を訊問し出した。
「煙草なぞ盗ったことはありません。金も勿論のことです。きょうはズボンのボタンが一つなくなったので、今晩じゅうにつけて置こうと思ってそれを取りに行ったのです。」
僕はあくまで泥棒の事実は否認した。
「そのズボンというのはどのズボンか。」
「今はいているこのズボンです。」
僕はそう言って、軍曹に引っぱられて来る途中にあらかじめ引きちぎって置いた、ボタンのあとを見せた。
「うん……」
中尉はこううなずいたまましばらく黙って何か考えていた。金でも煙草でも、とにかく盗んだとあれば、勿論すぐさま退校だ。また、単にボタンを取りにはいったとしても、夜無断ではいるべからざる室へはいったのだから、重営倉は免れない。それに、ただそうとして処分して置いても、下士からの報告の嫌疑は免れない。それでは本人の将来にもかかわる。また自分の責任にもなる
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