の味方の軍隊まで伝令に行った。敵の砲弾はますます花火のように散る。味方からの弾丸もますます霰のように飛んで来る。父はその間を二人の騎兵を連れて駈けて行った。が、その一人はすぐに倒れてしまった。そして父の馬もまた続いて倒れてしまった。父は仕方なしにもう一人の騎兵をそこに残して、その馬を借りてまた駈け出して行った。
「それで首尾よく任務は果したんだそうだがね、可哀そうにお馬は、お腹と足と四つも弾丸を受けて、その場で死んでしまったんですとさ。お父さんのお身代りをしたんだわね。」
 母はこう言ってまた大きな涙をぽろぽろと流した。馬丁のかみさんも女中もまた一緒になって泣いた。しかし僕は、あの馬が父の身代りをしてくれたのかと思うと、何だかこう非常に勇ましいような気がして、どうしても泣けなかった。
 父が凱旋して来てから、ある日家で、その当時の同じ大隊の士官連が集まって酒を飲んだことがあった。
「奥さん、この男がその時に即死の電報のあった男ですがね。その筈ですよ。今でもまだこんな大きな創が残っているんですからね。」
 もう大ぶ酒がまわった頃に、一人の士官がもう一人の士官の肩を叩いて言った。そして、
「おい、貴様はだかになれ、何、構うもんか、名誉の負傷だ。ね、奥さん。」
 と言いながら、無理にその士官をはだかにさせてしまった。酒に酔って真赤になっている背中の、左の肩から右の腋の下にかけて、大きな創あとの溝がほれていた。
「この通り、腕が半分うまってしまうんですからな。」
 最初の士官が腕を延ばして、それをその溝の中へ当てがって見せた。実際その腕は半分創あとの中にうまっていた。
 さすがの母も「まあ」と言ったきり顔をそむけていた。僕も少し気味が悪かった。
 父の馬もこの士官と同じように、いったん即死を伝えられた後に生き返って、ちんばになって帰って来た。父は母と相談して、生涯飼い殺しにしたいと言っていたが、そうもできないものと見えてその後払下げになってしまった。
 父はこの功で金鵄勲章を貰った。

 僕は今まであちこちの父の家が焼けて無くなっていたと書いて来た。それは、やはりこの日清戦争で留守の間に、与茂七火事という大きな火事があったのだ。
 幾月頃か忘れたが、もう薄ら寒くなってからのことのように思う。ある夜、十一時頃に、火事が起きた。僕のいた西ヶ輪[#底本では「西ケ輪」]は新発田のほとんど西の端で、その火もとはほとんど東の端だった。で、一時間ばかりは、家でその火の手のあがるのを見ていた。が、火は容易に消えそうもなかった。ますます火の手が大きくなって近所へ燃え移って行くようだった。
 僕はすぐ走って見に行った。そして一時間か二時間あちこちで見物していた。ある時には火のすぐそばまで行って見た。というよりもむしろ、火にすぐそばまで追っかけられて来た。火事場から四町も五町も遠くで見ていたつもりなのに、うっかりしているうちにもう火がすぐそばまで来ていた。火焔の舌が屋根を舐[#底本では「舐」が「甜」]めるようにして走って来るのだ。そして、僕は、そうこうしているうちに、火事場へ走って行く人はほとんどなくなって、火事場の方から逃げて来る人ばかりなのに気がついた。
 長い間天気が続いて、薄い板の木っ葉屋根がそり返るほどに乾ききっていた。火はこの屋根の上を伝って、あちこちの道に分れて、しかもそれがみな飛ぶようにして走り廻るのだ。ついには消防夫すらも逃げて帰った。
 僕もあわてて家の方へ走った。そして二、三町行った頃に、今までそのそばで見ていた鬼子母神という寺に火のついたのを見た。茅ぶきの大きな屋根だ。それがその屋根一ぱいの大きな火の柱になって燃え出した。
 火はまだ僕の家からは七、八町のところにあった。しかし僕はもう当然それが僕の家まで燃えて来るものと思った。僕は家に帰ってすぐ母に荷物を出すようにと言った。近所でももうみな荷ごしらえにかかっていたのだ。
「見っともないからそんなにあわてるんじゃない。」
 母はこう言ってなかなか応じない。しかし火の手はだんだん近づいて来る。僕はもう一時間としないうちにきっと火がここまで来ると思った。そして母にせめては荷ごしらえでもするように迫った。
「荷物は近所でみな出してしまってからでも間に合います。あんまり急いで、あとで笑われるようなことがあってはいけません。まあ、もう少しそこで見ていらっしゃい。」
 母はこう言いながら、しかし女中には何か言いつけているようだった。そしてしばらくして僕を呼んだ。
「もういよいよあぶないから、お前は子供をみんなつれて立ちのいておくれ。練兵場の真ん中の、あの銀杏の木のところね。あそこにじっとしているんだよ。いいかい、決してほかへは行かないようにね。」
 母はふろしき包みを一つ僕に持たしてこう言った。そしてすぐの妹に一番下の弟をおんぶさした。
 西ヶ輪[#底本では「西ケ輪」]を真っすぐに行けば、三、四町でもう練兵場の入口なのだ。練兵場にはもうぼつぼつ荷物が持ちこまれてあった。僕等は母の言いつけ通り銀杏の木の下を占領した。
 この銀杏の木は前に言った射的場ともとの僕の家の間にあった。そしてその家にはやはり軍人の秋山というのが住んでいた。母はその「秋山さんの伯母さんにみんなが銀杏の木の下にいることを知らしてお置き」と注意してあった。
 秋山家ではのん気でいた。裏は広し、近所は離れているし、どんなことがあっても大丈夫だと安心していた。が、僕がその家を出て銀杏の木の下に帰るか帰らないうちに、僕は大きな火の玉のようなものがそこの屋根へ落ちたのを見た。そしてアッと思っているうちに、それがパッと燃えあがった。
 母と女中が少しばかりの荷物を持ってやって来た。僕は布団にくるまって寝てしまった。
 火は昼頃まで続いて、新発田のいわゆる町のほとんど全部と本村の一部分の、二千五百戸ばかりを焼いてしまった。
 与茂七火事というのは、その幾十年か前にも一度あったんだそうだ。与茂七というのが無実の罪でひどい拷問にあって殺されてしまった。そのたたりなんだそうだ。そして現に、今言った秋山家の家は、当時その拷問をした役人の一人の家だったそうだ。それで近所はみな焼け残ったのに、特にその家だけが焼けたのだそうだ。僕の見た火の玉というのもほかに見たと言う人が大勢あった。ほかにもまだ、大ぶあちこちにそういった家があった。そしてそれは、秋山家をはじめほとんどみな、大きな茅ぶきの古い家だった。僕のいたその家のあとは、いまだに、まだ家もできずに広いあき地になっている。
 大倉喜八郎の銅像が立っている諏訪神社の境内に、与茂七神社という小さな社がある。これはその後与茂七を祀ったものだ。
[#改頁]


自叙伝(二)

   一

 焼け出されの僕等は、翌日の夕方、やはり軍人仲間の大立目という家に同居することになった。練兵場に沿うた、小学校の裏の家だった。
 そこにも子供が六、七人いた。その一番上のが明といって、学校も年も僕より二年上だった。僕はその明の少しぼんやりなのをふだんから軽蔑していた。そして引越し早々喧嘩を始めて、その翌日、家の前の溝の中に叩きこんでしまった。
 明は泥だらけになって泣いて帰った。そしてそのお母さんから、「年上のくせに負けて泣く奴があるか」と叱られて、着物を着かえさせられる前に二つ三つ頬をなぐられた。
 母は珍らしく大して僕を叱りもせずに、すぐどこかへ出かけて行った。そして、その翌日の朝早く、八軒町裏という町の、小学校のある女の先生の家に引越した。玄関とも入れて三間ばかりの家の六畳の座敷を借りたのだ。先生は一人でその次の室にいた。
「お前が喧嘩なんぞするものだから……」
 母はこう言ってちょっと僕をにらみながら、こんどは何か荷物を片づけている女中の方に向いて、
「ほんとうにこの子が少し負けてくれればいいんだがね……」
 と眉をしかめて見せながら、それでも
「こんどは相手が先生なんだから……」
 と笑っていた。

 半月ほどその家にいるうちに、四、五軒先きの小さな家があいて、そこへ引越した。
 大きな一廓の中に、三つ建物があって、その一つが二軒長屋になっていた。その一軒に横井というたぶん軍属がいて、もう一軒の方に僕等が住んだのだ。一番大きな建物には石川という少佐の家があった。その家は、ほかの二つの建物とは裏合せになって、特に塀で区劃されて、八軒町という町の方に向いていた。もう一つの僕等の方と隣りの建物には、山形というやはり少佐か大尉かの家があった。僕の父もその頃は戦地で大尉になっていた。
 山形の家には僕より二つ三つ上のを頭に四、五人男の子がいた。その一番上の太郎というのは、会津の中学校にはいっていて、滅多に家には帰らなかった。その次の次郎がちょうどいい僕の友達だった。石川の家にも男の子が二人いた。その上の四郎というのは山形の一番上のと同じ年恰好だった。横井の家にも僕と同じ年頃の男の子が一人いた。それともう一人、石川の家の筋向いの、大久保という大尉の家の子供と、それだけがすぐに友達になってしまった。もっとも横井の「黄疸」だけは僕のほかの誰も相手にしなかった。そしてその僕もいじめることのほかにはあまり相手にしなかった。
 しかしみんなはあまり仲のいい友達ではなかった。喧嘩はしなかったが、お互いに軽蔑し合っていた。石川と大久保とは古くから向い合って住んでいて仲が善かった。僕はこの二人のレファインされたお坊ちゃんらしさが気にくわなかった。二人は僕の野生的なのを馬鹿に[#底本では「に」が欠如]していたようだった。山形の次郎もお坊ちゃんだった。が、彼は長い間町の方に住んでいて、町の小学校に通っていたところから、石川や大久保とは違ったレファインメントを持っていた。したがってその二人とほんとうに親しむことはできなかった。僕はその山形の中にも多分の野獣性が潜んでいるのを見ていた。しかしその町人らしいレファインさは堪らなくいやだった。彼は多くはその弟を相手に遊んでいた。僕は大がい横井の「黄疸」をいじめて暮していた。栄養不良らしいその黄色な顔から、僕等は彼をそう呼んでいたのだ。横井はその妹の、やはり痩せた黄色い顔をしたのと、さびしそうに遊んでいた。
 お互いの母同士の間にも親しい交際はまるでなかった。

 その山形の家からお化が出た。
 夜なかに、台所で、マッチを磨る音がする。竈の火の燃える音がする。まな板の上で何かを切る音がする。足音がする。戸棚を開ける音がする。茶碗の音がする。話し声がする。そうした騒ぎが一時間も続くのだ。
 ある晩、山形の「伯母さん」というのが、便所へ行った帰りに、手を洗おうと思って雨戸を開けた。まんまるい大きい月が庭の松の木の間に引っ懸っているように見えた。庭はその月あかりで昼のように明るかった。伯母さんは手洗鉢の方へ手をやった。鉢の中の水にもまんまるい月が映っていた。が、その水を汲もうとすると、急にバラバラと大粒の雨が降って来た。可笑しいなと思って顔をあげると、雨も何にも降っていないで松の木の間にはやはりまんまるい月があかあかと光っていた。伯母さんは再び手洗鉢の方へ手をやった。すると、急にまた、バラバラと降って来た。伯母さんは恐ろしくなって、そのまま、寝床へ逃げて帰った。
 翌晩、伯母さんはまた夜遅く目がさめた。そしてまた便所へ行きかけた。障子をあけた拍子に伯母さんの足もとに、何だか重そうなものがバタンと落ちた音がして、それが向うの方へころころと転がって行った。伯母さんは気味悪がりながら、暗をすかしてその転がって行くのを見ていると、それが真暗な中にはっきりと大きな人の首に見えた。伯母さんはそのままキャッと叫んでそこに倒れてしまった。
 それから二日目か三日目の晩に、伯母さんは、こんどは大入道が突っ立っているのを廊下で見た。
 山形家は大騒ぎになった。もといた家の近所の、町の若衆が四、五人泊りに来た。みんなは樫の棒を一本ずつ横において夜じゅう飲みあかした。それで二晩三晩はお化が出なかった。が、その若衆連が帰る
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