人に仕込むことだけは忘れなかったようだ。父が日清戦争に行く前のことだから、僕がまだ九つか十の時だ。父は毎日他の士官等と一緒に、家のすぐ前の練兵場の射的場で、ピストルの稽古をした。それにはきっと僕を連れて行った。そして僕にもピストルの撃ちかたを教えて撃たして見た。
僕が父の馬に乗るのを覚えたのも、やはりその頃のことだった。
また、その日清戦争から帰って来てからは、一里ばかりある大宝寺という、ほんとうの実弾射撃をやる射的場へ連れて行った。そしてそこでは、ビュウビュウ頭の上へ弾丸が飛んで来る、的の下の穴の中へ連れて行かれた。
十四か五の時には刀剣の見かたを教わった。刀屋が刀を持って来ると、僕もきっとその席に出しゃばっていた。そして無銘の新刀を一本貰って、藁の中に竹を入れて束ねたのを試し斬りをやらされた。スパリスパリと気持よく斬れた。
幼年学校にはいってからは、暑中休暇に是非一度、佐渡へ地図をとりに連れて行くと言っていたが、これは父の方にひまがなくって果されなかった。そして一、二度、一、二泊の近村への演習に連れて行かれた。
それと、幼年学校にはいる前に父からドイツ語を少し教わったほかには、僕は子供の時の父との親しい交渉をあまり覚えていない。
日清戦争前には、僕の家は、今言った練兵場に沿うた、片田町というのにあった。四番目の家だ。これも焼けて無かった。
その頃の僕の遊び場は練兵場だった。
射的場と兵営のお濠との間には障害物があった。これは、二、三百メートルばかりの間に、灌木の藪や、石垣や、濠や、独木橋や、木柵などをならべ立てたもので、それを兵隊が競走するのだった。僕はそこで毎日猿のように、藪を飛び、濠を越え、橋を渡って遊んでいた。兵隊が競争しているそばへ行って、それと一緒に走り出しても、大がいは僕が先登だった。それが飽きると、というよりもむしろ、もう夕方近くなって兵隊がみな隊に帰ると、僕はよく射的場の弾丸をほりに行った。
大宝寺の方の弾丸は鉛の細長いのだったが、ここのは丸かった。昔の単発銃のだからずいぶん大きかった。僕はそれを四十も五十も拾って来ては、それを溶かして、いろんな形をこしらえて喜んでいた。
この弾丸をほることは一つの冒険だった。時々衛兵が見廻りに来た。衛兵でない兵隊もよくそこを通った。で、普通は、夜暗くなってからでなければ取りに行かなかったのだ。
が、僕のこの例を見て、仲間が大ぶ増えた。そしてその仲間等は、僕が一緒にいれば見つかって捕まっても大事はないと思ったのか、いつも僕を誘っては取りに行った。僕はこの仲間の中にはいって妙なことを発見した。それは、みんなの弾丸を一つにまとめて、ジャン拳で番をきめて、どこかへそれを売りに行くのだった。そして帰りには何かの菓子を買って来た。僕も一度その仲間入りをした。もっともジャン拳だけは遁れた。それがどうした訳だったか、その一度きりで僕はまた仲間はずれになってしまった。この仲間というのは、町はずれの、ちょっと貧民窟といったようなところの子供等だった。
この家の裏に広い竹藪があった。栗だの、柿だの、梨だの、梅だのの、いろんな果物の木もあった。
そしてその竹藪には、孟宗のほかに、細い、その竹の子をおもちゃにしてポンポン吹いて鳴らす竹があった。やはりどうかした拍子に急に会いたくなって、僕は一度、その竹の子を持って光子さんのところへ行ったことがあった。
しかしこの竹藪はそんな優しいことばかりには使われなかった。
新発田は新発田町というのと、新発田本村というのと二つに分れていた。町というのは昔の町人町で、本村というのは侍屋敷のあったところだ。今でもやはりそうだが、その当時もやはり大体そうなっていた。小学校も尋常小学校は別々にあった。そしてこの町と本村では、風俗にも気風にも大ぶ違うところがあった。
町の子が練兵場に遊びに来ると、彼等は障害物も何もできないので僕等はよく彼等をからかったり苛めたりした。そんなことがいろいろと重なって、とうとう町の子と僕等との長い間解けなかった大喧嘩となった。
僕等の方は十二、三の子が十人ほどいた。士官の子は僕一人で、あとはみな土地の子だった。そして僕は十で一番年下だった。町の方は二十人くらいから三十人くらいまでいた。年はやはり十二、三が多いのだが、十四、五のも三、四人まじっていた。
戦争は大がい片田町から町の方の仲町というのに通ずる竹町で行われた。いつも向うから押しよせて来るので、僕等はそれを竹町の入口で防いだのだった。竹町というのは、わりに道はばも広く、それに両側に家がごくまばらだったので、暗黙の間にそこを戦場ときめてしまったのだ。
僕は家の竹藪から手頃の竹を切ってみんなに渡した。手ぶらで来た敵は、それでもう第一戦で負けてしまった。
次には彼等もやはり竹竿を持って来た。しかしそれは、多くは、長い間物ほしに使ったのや、あるいはどこかの古い垣根から引っこぬいて来たのだった。接戦がはじまって、両方でパチパチ叩き合っているうちに、彼等の竹竿はみなめちゃくちゃに折れてしまった。
二度とも僕は一番先登にいたんだが、向うでもやはり二度とも同じ奴が先登にいた。そいつは仲町の隣りの下町の、ある豆腐屋の小僧で、頭に大きな禿があるので、それを隠すためにちょん髷を結っていた。もう十五、六になっていたんだろうが、喧嘩がばかに好きで、一銭か二銭かで喧嘩を買って歩くという男だった。この時にもやはり幾らか出して敵の仲間に入れて貰ったのだ。僕はそいつが気味が悪いのと同時に、憎らしくって堪らなかった。で、どうかしてそいつを取っちめてやろうと思っていた。
三度目の時は石合戦だった。両方で懐ろにうんと小石をつめこんで、遠くからそれを投げ合っては進んで行った。どうしたのか、敵の方が早く弾丸がなくなって、そろそろ尻ごみしはじめた。僕はどしどし詰めよせて行った。敵は総敗北になった。が、ちょん髷先生ただ一人、ふみ止まっていて動かない。とうとうみんなでそいつをおっ捕えて、さんざんに蹴ったり打ったりして、そばのお濠の中へほうりなげて、凱歌をあげて引きあげた。
四
僕はこんな喧嘩に夢中になっている間に、ますます殺伐なそして残忍な気性を養って行ったらしい。何にもしない犬や猫を、見つけ次第になぐり殺した。そしてある日、例の障害物のところで、その時にはことさらに残忍な殺しかたをしたように思うが、とにかく一疋の猫をなぶり殺しのようにして家に帰った。自分でも何だか気持が悪くって、夕飯もろくに食わずに寝てしまった。
母は何のこととも知らずに、心配して僕の枕もとにいた。大ぶ熱もあったんだそうだ。夜なかに、ふいと僕が起きあがった。母はびっくりして見守っていた。すると僕が妙な手つきをして、「にゃあ」と一と声鳴いたんだそうだ。母はすぐにすべてのことが分った。
「ほんとうに気味が悪いの何のって、私あんなことは生れて初めてでしたわ。でも私、猫の精なんかに負けちゃ大変だと思って、一生懸命になって力んで、『馬鹿ッ』と怒鳴ると一緒に平っ手でうんと頬ぺたを殴ってやったんです。すると、それでもまだ妙な手つきをしたまま、目をまんまるく光らしているんでしょう。私もう堪らなくなって、もう一度、『意気地なし、そんな弱いことで猫などを殺す奴があるか、馬鹿ッ』と怒鳴って、また頬ぺたを一つ、ほんとうに力一杯殴ってやったんです。それで、そのまま横になって、ぐうぐう寝てしまいましたがね。ほんとうに私、あんなに心配したことはありませんでしたよ。」
母はよくこう言って、その時のことを人に話した。そして僕は、その時以来、犬や猫を殺さないようになった。
やはり片田町のその家にいた時のことだ。
正月に下士官が大勢遊びに来た。父はしばらくそのお相手をしていたが、やがて奥の自分の室にはいって寝てしまった。父は酒が飲めないんで、ほんの少しでも飲むとすぐに寝てしまうんだった。
下士官等はまだ長い間座敷で飲んでいた。が、そのうちに、誰か一人が「副官がいないぞ」と怒鳴り出した。
「怪しからん、どこへ逃げた。」
「引きずって来い。」
「来なけれやこれで打ち殺してやる。」
へべれけに酔った四、五人の曹長どもが、長い剣を抜いて立ちあがった。僕はその次の室で、母や女中と一緒に、どうなることかと思ってはらはらして聞いていた。
「奥さん、副官をどこへ隠した?」
曹長どもはその間の襖を開けて母に迫って来た。僕は母にぴったりと寄り添っていた。女中は青くなって慄えていた。
「どこへも隠しやしません。宿もまたどこへも逃げかくれはしません。さあ、私がご案内しますからこちらへいらっしゃい。宿は自分の室でちゃんと寝ているんです。」
母はこう言いながら突っ立って、
「栄、お前も一緒においで。」
と僕の手をとって、さっさと父の室の方へ行った。そしてそこの襖を開けて、
「さあ、みなさん、この通りここに寝ているんです。突くなり斬るなり、どうなりともお勝手になさい。」
と、きめつけた。僕も母のこの元気に勢いを得て、どいつでも真っさきにこの室へはいって来る奴に飛びついてやろうと、小さな握拳をかためて身構えていた。
が、曹長どもは母のけん幕に飲まれて、うしろの方から一人逃げ二人逃げだして、とうとうみんな逃げ出してしまった。そして※[#「つつみがまえ+夕」、読みは「そう」、第3水準1−14−76、30−8]々にして帰ってしまった。
翌日、その下士官どもが一人ずつあやまりに来た。僕は母と一緒に玄関に出て、そのしょげかえった様子を見て、痛快でもあり、また可笑しくて堪らなかった。
父が日清戦争で出征するとすぐ、竹町とは反対の方の片田町の隣りの、西ヶ輪[#底本では「西ケ輪」]という町に引越した。斎藤という洋服屋の裏の小さな家だった。そして父がまだ宇品で御用船の出帆を待っている間に、母に男の子が生れた。父から「イサムトナヲツケヨ」と電報が来た。三の丸では次弟が生れた。片田町では三番目の妹が生れた。そして、これで僕は三人の妹と二人の弟との五人の兄きとなった。母はこの六人の子と一人の女中と都合八人で、二階一間下三間の、庭も何にもない小さな家にひっこんだのだ。片田町の家は七間か八間あった。そしてできるだけの倹約をして貯金を始めた。
母は仮名のほかは書けないので、手紙の上封はみな僕が書かされた。中味も、父と山田の伯母へやるののほかは、大がい僕が書かされた。母が口で言うのを候文になおして書くんだが、まだ学校で教わらないような用事ばかりなので閉口した。母はずいぶんもどかしがりながらも、そのできあがるのを喜んで、自慢で人に見せていた。しかし僕は、それよりも、よそから来る手紙を母に読んで聞かせる方が、よほど得意だった。
ある日僕は学校から帰って来た。そしていつもの通り「ただ今」と言って家にはいった。が、それと同時に僕はすぐハッと思った。母と馬丁のおかみさんと女中と、それにもう一人誰だったか男と、長い手紙を前にひろげて、みんなでおろおろ泣いていた。僕はきっと父に何かの異状があったのだと思った。僕は泣きそうになって母の膝のところへ飛んで行った。
「今お父さんからお手紙が来たの。大変な激戦でね、お父さんのお馬が四つも大砲の弾丸に当って死んだんですって。」
母は僕をしっかりと抱きしめて、赤く脹れあがった大きな目からぽろぽろ涙を流して、その手紙の内容をざっと話してくれた。
場所は威海衛だ。父の大隊は海上に二艘日本の軍艦が浮かんでいるので、安心して海岸の方へ廻って行った。するとその軍艦が急に日章旗をおろして砲撃を始めた。それが鎮遠、定遠だとかいうことだった。父の大隊は驚いて逃げだした。するとこんどはその逃げ出すさきの丘の方から、味方の軍隊が盛んに鉄砲を打ち出した。たぶん、日本の軍艦から砲撃されるんだから敵の軍隊だろうと思ったんだろう、ということだった。父の大隊は敵と味方とに挾みうちされて進退きわまった。
大隊の副官であった父は、すぐに大隊長と相談して、そ
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