のお米さんを連れ出してそっと青山に出かけて行った。練兵場にはいった頃に、お米さんはもう歩けないと言って泣き出す。そこへ犬が吠えついて来て僕も泣き出す。しまいには二人で抱き合って声を限りに泣いていた。そして通りかかった兵隊になだめられて、ようやく父のところへ連れて行かれた。
新発田の連隊へ送られるのは、多くは何かのしくじりがあって、島ながしにされるのだと聞いたことがあった。新発田ばかりではない。遠い地方の田舎へやられるのは、多くはそうであったのかも知れない。
もうよほど後のことであるが、家に大勢士官が集まった。父はその士官等に、山田の伯父から送って来た葉巻をご馳走した。しかしそのお客の中で、この葉巻を満足に吸ったものはほとんど一人もなかった。みんな太い方を口へ持って行って、とがった先きにマッチの火をつけようとした。新発田というのはそんな田舎だったのだ。
しかし僕は父が何の失態で新発田へ逐いやられたのか知らない。週番で宮城につめていた時、何かの際に馬から跳ね飛ばされて、お濠の中に落っこちて、泥まみれになって上って来た。それを陛下がご覧になって、「猿じゃ猿じゃ」と笑い興ぜられたことがあったそうだ。しかしこれは父の光栄であって、決して失態ではなかろう。実際父はちょっと猿のような顔をしていた。
が、とにかく父は新発田に逐いやられたのだ。
父は、やはり同じ近衛から新発田へやられるもう一人の下士官と一緒に、東京を出た。僕はその旅の中で、碓氷峠を通る時のことだけを覚えている。碓氷峠にはまだアプト式の鉄道も布かれてなかった。そしてその海抜幾千尺か幾里かの峠を、僕等は二台のガタ馬車で走った。一台には父の同僚の家族が乗っていた。親子三人のようだった。もう一台には僕等が乗っていた。父と母とは各々一人ずつの妹を抱きかかえていた。僕は一人でしっかりと何かにしがみついていた。折々馬車が倒れそうに揺れる。下を見ると、幾十丈だか知れない深い谷底に、濃い霧が立ちこめている。僕は幾度胆を冷やしたか知れない。
僕はこの自叙伝を書く準備をしに、最近に、二十年目で新発田へ行って見た。その間には、もう十幾年か前に鉄道がかかって、そこに停車場もできている。ほとんど面目一新というほどに変っているだろうと期待して行った。そしてほとんどどこもかも、まるで二十年前そのままなのに驚かされた。
停車場の附近が変っていることは論はない。そして僕はそこを出るとすぐ、また新しい華奢な監獄のような製糸場が聳えているのを見て、ここにもやはり産業革命の波が押しよせたなとすぐ感じた。しかしそれは嘘だった。その後町のどこを歩いて見ても、その製糸場以外には、工場らしい工場一つ見つけ出すことはできなかった。新発田の町はやはり依然たる兵隊町だった。兵隊のお蔭でようやく食っている町だった。
製糸場は大倉喜八郎個人のもので、大倉製糸場の看板をさげていた。そしてこれは喜八郎の営利心を満足させるよりも、むしろその虚栄心のためのものであるようだ。喜八郎は新発田に生れた。何かで失敗して、近所じゅうに借金を残して、天秤棒一本持って夜逃げしたんだそうだ。が、あの通りの大富豪になり、ことには男爵になるに及んで、その郷里にこの製糸場と、そのすぐそばの諏訪神社の境内に自分の銅像を立てたのであった。
けれども、ここにもやはり、道徳的にはもう資本家主義が漲れて来ていた。喜八郎が自分の銅像を自分で建てることは喜八郎一人の勝手だ。しかしこの喜八郎の肖像が、麗々しく小学校の講堂にまで飾ってあるのだ。
父の家は十幾軒か引越して歩いた。そしてその中で三、四軒火事で焼けたほかには、ほとんどみな昔のままで残っていた。僕はその家の前を、ほとんどその引越し順に、一々廻って見た。
最初の家は焼けて無かった。しかしこの家については何の記憶もなかった。
その次の家も焼けて無かった。小学校へはこの家から通い出したのだから、七つか八つまでの頃だと思う。隣りに大川津という大工がいて、そこに僕よりも一つ二つ年上の男の子と、やはりそのくらい年下の女の子といた。僕はその二人と友達だった。
が、僕がそこで思い出したのは、この二人の友達のことではなかった。それは、もう一人の、そこから四、五丁離れたところにいた女の友達のことだった。この友達のことは、こんごもたぶん幾度も出て来るだろうと思うが、かりに光子さんと名づけて置く。
光子さんとは学校で同じ級だった。僕は何となく光子さんが好きで仕方がなかった。しかしお互いの家に交際があるのではなし、近所でもなし、ちょっと近づきになる方法がなかった。そして学校では、ぶつかりさえすれば、何かの仕方で意地悪をしていた。
ある日僕は、家にいて、急に光子さんの顔が見たくて堪らなくなった。そしてそとにいた大川津の妹の顔をいきなり殴りつけて、その頭にさしていた朱塗りの櫛をぬき取って、それをしっかと握ったまま、光子さんの家の方へ駈けていった。光子さんはうまく家の前で遊んでいた。僕は握っていた櫛をそこへほうりつけて、一目散にまた逃げて帰った。
三番目の家は、三の丸という町のつき当りの、小学校のすぐそばであった。学校は改築されてすっかり変っていたが、その家はもう大ぶ打ち傾きながらも三十年前そのままの面影を保っていた。
僕はしばらく門前にたたずんで、玄関のすぐ左の一室の窓を見つめていた。それが僕の室だったのだ。
窓の障子はとり払われていて、その奥の茶の間までも見えた。その茶の間と僕の室との間にも障子があった筈なのだ。そして僕の思い出はこの障子一つに集まった。
何をしたのかは忘れた。が、たぶんマッチで何か悪戯をしていたのだろう。母にうんと叱られて、その口惜しまぎれに、障子に火をつけた。障子は一度にパァと燃えあがった。母は大声をあげて女中を呼んだ。そして二人であわてて障子を押し倒して消してしまった。
この家から道を距てたすぐ前は、尋常四年の時の教室だった。僕はその教室のあったあたりを慄えるようにして眺めた。
受持の先生は島といった。まだ二十歳前後だったのだろう。ちんちくりんの癖に、いつも妙に口もとを引きしめて、意地悪そうに目を光らして、竹の根の鞭で机の上をぱちぱち鳴らしていた。何かというとすぐにそれで打つのだった。僕はほとんど毎日のようにこの鞭の下に立ちすくんだ。そして僕は、その事情はよく覚えていないが、この先生のお蔭で算術が嫌いになったような気がする。
その後五、六年して僕が幼年学校にいた頃、暑中休暇に、ふと道で東京でこの先生と出っくわしたことがあった。昔と同じように口もとを引きしめて意地悪そうな目つきはしていたが、僕よりもずっと背の低い、みすぼらしい風をした、小僧のような書生だった。
この学校の先生で覚えているのは、もう一人、斎藤というもういい加減な年の先生だった。二年か三年の時の先生だ。いつも大きな口をあけてげらげら笑いながら、いやに目尻をさげて女の生徒とばかり遊んでいる先生だった。よくいやがる光子さんなどを抱きかかえては、キャッキャッと言わしていた。
そして何か悪戯をすると、きっとその罰に、女の生徒の教室に立たした。教壇の上にあがらして、一杯に水を盛った茶碗を両手に持たして、みんなの方に向かして立たした。僕は先生の方から見えないのを幸いに、いつも舌を出したり目をむいたりしてみんなをからかっていた。
この教室の向うに教員室があって、そのまた向うに物置の土蔵があった。僕はその教員室に幾度とめ置きを食ったか知れない。そして時々はその真暗な土蔵の中にも押しこまれた。そこには古い机や椅子が積み重ねられてあった。だんだん目が馴れて来ると、鼡がその間をちょろちょろするのがよく見えた。あんまり長く置かれると、退屈して、よくそこに糞をたれてやった。
が、生徒の面倒をよく見てくれたのは、それらの先生ではなくって小使だった。背の低い、いつもにこにこしたのと、背の高い、でこぼこの恐い顔のと、二人いた。二人とも、ひまがあると、小使室で、大きな炉の中の大きな鉄瓶の前で、網をすいていた。僕はよく先生に叱られてはこの小使室へあまえに行った。そして小使の言うことは僕もよく聞いた。
三
こうして僕は毎日学校で先生に叱られたり罰せられたりしていた間に、家ででもまた始終母に折檻されていた。母の一日の仕事の主な一つは、僕を怒鳴りつけたり打ったりすることであるようだった。
母の声は大きかった。そしてその大きな声で始終何か言っていた。母を訪ねて来る客は、大がい門前まで来るまでに、母がいるかいないか分るというほどだった。その大きな声を一そう大きくして怒鳴りつけるのだ。そしてその叱りかたも実に無茶だった。
「また吃る。」
生来の吃りの僕をつかまえて、吃るたびにこう言って叱りつけるのだ。せっかちの母は、僕がぱちぱち瞬きしながら口をもぐもぐさせているのを、黙って見ていることができなかったのだ。そして「たたたた……」とでも吃り出そうものなら、もうどうしても辛抱ができなかったのだ。そしてこの「また吃った」ばかりで、横っ面をぴしゃんとやられたことが幾度あったか知れない。
「栄。」
と大きな声で呼ばれると、僕はきっとまた何かの悪戯が知れたんだろうと思って、おずおずしながら出て行った。
「箒を持っておいで。」
母は重ねてまた怒鳴った。僕は仕方なしに台所から長い竹の柄のついた箒を持って行った。
「ほんとにこの子は馬鹿なんですよ。箒を持って来いと言うと、いつも打たれる[#「打たれる」は底本では「打れたる」と誤記]ことが分っていながら、ちゃんと持って来るんですもの。そして早く逃げればいいのに、その箒をふりあげてもぼんやりして突っ立っているんでしょう。なお癪にさわって打たない訳には行かないじゃありませんか。」
母は僕の頭をなでながら、やはり軍人の細君の、仲好しの谷さんに言った。
「でも、箒はあんまりひどいわ。」
谷のお母さんもやはり家の母と同じように大勢の子持だった。そしてやはりよくその子供を打った。しかし母にこの抗議をする資格は十分にあったのだ。
「それや、ひどいとは思いますがね。もうこう大きくなっちゃ、手で打つんではこっちの手が痛いばかしですからね。」
谷のお母さんは、優しい目で「でも、ひどいわね」という意味を僕に見せながら、それでもやはりこれには同感しているようだった。そして話はお互いの子供の腕白さに移って行った。
が、僕は母の言うこの「馬鹿なんですよ。」に少々得意でいた。そして腹の中でひそかにこう思っていた。
「箒だってそんなに痛かないや。それに打たれるからって逃げる奴があるかい。」
父はちっとも叱らなかった。
「あなたがそんなだから、子供がちっとも言うことを聞かないんですよ。」
母はよく父を歯がゆがって責めた。そして日曜で父が家にいる時には、今日こそは是非叱って下さいと迫った。
「今日は日曜だからな、あしたうんと叱ってやろう……うん、そうか、また喧嘩をしおったのか……何、勝った?……うん、それやえらい、でかした、でかした……」
父は母が迫れば迫るほど呑気だった。
母はたべ物にずいぶん気むずかしかった。ことに飯にはやかましかった。
「僕のもめっかちだよ。」
母が飯の小言を言うと、僕もすぐそれについて雷同した。
「心が曲っていると、めっかちのご飯が行くんだ。お父さんのなんか、それやおいしい、いいご飯だ。」
僕は父がこう言うんで、ほんとうかしらと思って、無理に父の茶碗の飯を食って見た。しかしそれは、勿論、やはりめっかちだった。
父はこんなふうで、女中達にも小言一つ言ったことがなかった。
父は家のことも子供のこともすっかり母に任しきりにしていたのだ。それで、小言も言わない代りに、家のことや子供等とはまるで没交渉でいたのだ。朝早く隊へ出て、夕方帰って来て、夜は大がい自分の室で何か読むか書くかしていた。で、子供等は朝飯と夕飯の時のほかは、めったに父と一緒のことはなかった。
それでも父は僕を軍
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