と、すぐまたお化が出た。
そんなことが幾度も繰返されているうちに、最後に、山形のお母さんがふだんから信心しているある坊さんが祈祷に来た。そして坊さんは幾晩か泊って行ったようだった。
その祈祷のおかげでお化が消えてなくなったかどうかは今よく覚えていない。しかしこの坊さんというのがどうもくせものだったように思われる。
石川や大久保の家ではこのお化の話をてんで相手にしなかった。そしてそれを、要するにその坊さんを泊りこませたい、何等かの策略のようにうわさしていた。山形のお母さんというのはちょっと意気なところのある人だった。
それから、やはりその頃のことだが、戦勝の祈祷と各自の夫の無事を希う祈祷との、夫人連の会があった。その祈祷にはやはり今ここに問題になっている坊さんが出たのだった。そしてその席上で、どことかの奥さんが、その坊さんの肩にしがみついたとかどうとかという話もあった。また、その坊さんのお寺というのは、新発田から三里ばかりある菅谷という山の中にあるのだが、そこまでわざわざお参りに行った奥さんもあった、というような話もあった。
が、このお化は僕の家にもたった一度出た。母は何かの病気で一週間ほどどこかの温泉へ行っていた。その留守のある晩に、僕のすぐの妹と女中とが夜なかにふと目がさめてどうしても眠られずにいる間に、台所の方で例のカタカタコトコトが始まった。二人はものも言わずに慄えていた。が、それと同時に、横井の家の小さな飼犬が盛んに吠え出した。そしてわずか二、三分の間にお化は逃げ出してしまった。
しかし妹等と隣りの室に寝ていた僕は何にも知らずに眠っていた。そして翌日その話をされた時にも僕は「馬鹿な」と言って笑っていた。が、女中は恐いのと心配なのとで、母に電報を打ってすぐ帰って貰った。母は「お母さんとお兄さんとがいれば大丈夫だ」と言ってみんなを慰めていた。そして実際母は何にも心配しているように見えなかった。
その後四、五年して、名古屋の幼年学校で山形の太郎と会った時、自分はこの耳でその音を聞いたんだからどうしてもあのお化を信ずると言っていた。山形は僕より二年前に幼年学校にはいっていたのだ。
お化はまた戦死した軍人の家にも出た。
ある若い細君が、夜なかにふと自分の名を呼ばれたような気がして、目をあけた。するとその枕もとに、血だらけになった夫が立っていた。
そしてその細君は、翌朝、夫の名誉の戦死の電報を受けとった。
二
二、三カ月その家にいたあとで、二軒町という隣り町の、高等小学校のすぐ前に引越した。そして、そこで初めて、十の年の暮に、僕は性の遊びを覚えた。
同じ焼け出されの軍人の家に川村というのがあった。そのお母さんと娘とがすぐ近所に間借りをしていた。母とそのお母さんとは兄弟のように親しくしていた。僕もそのお母さんは大好きだった。が、それよりも僕は、その娘のお花さんというのがもっと大好きだった。
お花さんは僕とおない年か、あるいは一つくらい年下だった。ほとんど毎日僕の家に遊びに来た。そして大抵は、妹等と遊ばずに、僕とばかり遊んでいた。
みんなで一緒に遊ぶ時には、よくみんなが炬燵にあたって、花がるたかトランプをして遊んだ。そんな時にはお花さんはきっと僕のそばに座を占めた。お花さんの手と僕の手とは、折さえあれば、炬燵の中でしっかりと握られていた。あるいはそっとお互いの指先きでふざけ合っていた。そして二人で、お互いにいい気持になって、知らん間にそれをほんとうの(三字削除)びに使っていた。
が、お花さんも僕も、それだけのことでは満足ができなかった。二人は、二階の僕の室で、よく二時間も三時間も暮した。そしてそこでは、誰に憚ることもなく、大人のようなことをして遊んでいた。
その頃僕にはもう一人の女の友達があった。それは、やはり近所に住んでいた、千田という軍人の娘だった。
ある日僕は、どんないたずらをしたのか忘れたが、母に「あやまれ」と言って迫られた。が、迫られれば迫られるほど、ますますあやまることができなくなった。
夕飯が済んでから、母は「もうこんな強情な子の世話はできないから、東京の山田の伯母さんのところへ行ってしまう」と言って、女中や子供等にみんなに着物を着かえさして、小さな行李を一つ持って、みんなでどこかへ出かけて行った。僕は東京へ行くというのは嘘だろうと思ったが、そのやりかたが大げさなので、実際どこかへ行ってしまうのじゃあるまいかと心細くなった。しかし、何だってあやまるものかと思いながら、仕方なしに床を敷いて寝ていた。
二、三時間して、玄関へどやどやと大勢はいって来る声がした。母を始め出て行ったみんなと、千田のお母さんと娘の礼ちゃんとが来たのだ。
「伯母さんがあやまってあげるから、もう決してしないっておっしゃいね。」
千田のお母さんは僕の枕もとに来てしきりに僕を説いた。が、それが母と相談の上だと思うと、なお僕はあやまりたくなくなった。
「ざまあ見ろ。とうとうみんな帰って来たじゃないか。」
僕はひそかにそう思いながら、黙って布団を頭からかぶっていた。
「あの通り強情なんですからね……」
母はそう言いながら、また何か嚇かす方法を相談しているようだった。
「あなたもまたいい加減に馬鹿はお止しなさいよ。」
千田のお母さんは母をたしなめて、このまま黙って寝かして置くようにと勧めていた。
その間に礼ちゃんが僕のそばへやって来た。そしてそっとその手を布団の中に入れて僕の手を握った。
「ね、栄さん、わたしがあやまってあげるわね。いいでしょう、もう決してしないから勘弁して下さいってね。わたしが代りにあやまってあげるわ。ね、いいでしょう。もうあやまるわね。」
礼ちゃんは布団をまくって、じっと僕の顔を見ながら、「ね、ね」と幾度も繰返して言った。僕の堅くなっていた胸が、それでだんだん和らいで行った。そしてとうとう僕は黙ってうなずいてしまった。
お花さんは町の方の小学校に通っていた。礼ちゃんは僕よりも一年下の級だった。そして光子さんは僕と同じ級だった。
礼ちゃんの級では、礼ちゃんが一番評判の美人だった。学科の方でもやはり一番だった。光子さんの級では、光子さんが一番出来がよかった。しかし綺麗という点の評判では、有力な一人の競争者を持っていた。それは絹川玉子さんといった。
玉子さんは休職軍人の娘だった。まる顔の、頬の豊かな、目の小さくまるい、可愛らしい子だった。しかし僕は、そのどこかしら高慢ちきなのが、気に食わなかった。着物もいつも綺麗なのを着ていた。そして妙にそり返って、ゆったりと足を運んで歩いていた。今考えても、ちょっとこう、小さな公爵夫人というような気がする。
光子さんは衛戍病院のごく下級な薬剤師か何かの娘だった。彼女の着物はいつも垢じみていた。細面で、頬はこけていた。そして、玉子さんのように色つやのいい赤味ではなく、何だかこう下品な赤味を帯びていた。目は細く切れていた。
ある日僕は玉子さんを道に要して通せんぼをした。彼女は何にも言わずに、ただ頬を脹らして、じっと僕をにらめていた。僕はそうした彼女の態度が大嫌いだったのだ。それがもし光子さんであれば、彼女はきっと「いやよ」とか何とか叫んで、僕の手を押しのけて行こうとするのだ。そしてそれを望みで僕はよく彼女を通せんぼした。
美少年の石川や大久保は玉子さんびいきだった。それで僕はなおさら玉子さんを嫌って光子さんびいきになった。
二軒町のその家の隣りに、吉田という、近村のちょっとした金持が住んでいた。
僕はそこのちょうど僕と同じ年頃の男の子と友達になった。が、すぐに僕は、その男の子と遊ぶのをよして、そのお母さんと遊ぶようになった。
この伯母さんは、火事で火の子をかぶったのだと言って、髪を短かく切っていた。どちらかの眉の上に大きな疣のようなほくろのある、あまり綺麗な人ではなかった。
伯母さんはその子と僕とにちょいちょい英語や数学を教えてくれた。そしていつも僕が覚えがいいと言っては、その御ほうびに、僕をしっかりと抱きかかえて頬ずりをしてくれた。僕はその御ほうびが嬉しくて堪らなかった。
「私はね、こんな家へお嫁に来るんじゃなかったけど、だまされて来たの、でも、今にまたこんな家は出て行くわ。」
伯母さんはその子供のいない時に、いつもの御ほうびで僕を喜ばせながら、そんな話までして聞かした。そして実際、その後しばらくして出て行ったらしかった。
この家の裏は広い田圃だった。そして雨のしょぼしょぼと降る晩には、遠くの向うの方に、狐の嫁入りというのが見えた。
提灯のようなあかりが、一つ二つ、三つ四つずつ、あちこちに見えかくれする。始まったな、と思っていると、それが一列に幾町もの間にパッと一時に燃えたり、また消えたりする。そうかと思うと、こんどはそれが散り散りばらばらになって、遠くの田圃一面にちらちらきらきらする。
吉田の伯母さんは、「これはきっと硫黄のせいよ」と言って、ある晩僕等がまだ見たことのない蝋マッチを持ち出して、雨にぬれた板塀に人の顔を描いて見せた。青白い、ぼやけた輪郭の、ぼっぼと燃えているようなお化がそこに現れた。僕は面白半分、恐さ半分で、伯母さんの言いなり次第に、指先きでお化の顔をいじって見た。するとこんどは僕の指先きから青白い光が出た。それを僕はお化の顔のまわりのあちこちに塗りつけた。そしてその塗りつけたあとがみんな青白い光になってしまった。
「よく恐がらずにやったわね。またいろんな面白いことを教えてあげましょうね。」
伯母さんは僕を抱きあげて、頬の熱くなるほど頬ずりをしてくれた。
この狐の嫁入りについては、あとで、次のような伝説をきいた。
昔何とかいう大名と何とかいう大名とがそこで戦争をした。何とかの方は攻め手でかんとかの方は防ぎ手だった。防ぎ手はとても真ともではかなわないことを知って、ある謀りごとをめぐらした。それはこの辺が一面の沼地で、ちょっと見れば何でもない水溜りのように見えるのだが、過まってそこへ落ちこめばすぐからだが見えなくなってしまうほどの深い泥の海のようなものだった。この沼の中へ案内知らない敵を陥しこもうというのだ。味方はみな雪の上を歩く「かんじき」というのをはいた。そしてわざと逃げてこの沼地の上を走った。敵はそれを追っかけて来た。そしてみんな泥の中にはまって姿が見えなくなってしまった。その亡霊がああした人玉になってまだ迷っているのだと。
実際その辺の田からは、その頃でもまだ、よく人の骨や槍や刀や甲などが出てきた。
三
父が戦争から帰って来る少し前に、家はまた片田町の、前のとは四、五軒離れたところに引越した。そしてそこから僕は二年間高等小学校に通った。
学校の出来はいつも善かった。尋常小学校の一年から高等小学校の二年まで、三番から下に落ちたことはなかった。高等小学校では、町の方の尋常小学校から来た大沢というのをどうしても抜くことができずに、二年とも大沢が級長で僕と大久保とが副級長だった。大久保は僕よりも一つ年が多く、大沢は二つくらい多いようだった。
高等小学校にはいってからは、学校のほかにも、英語や数学や漢文を教わりに私塾に通った。英語は前にいた片田町の家の隣りの速見という先生に就いた。どんな学歴の人か知らないがハイカラで道楽者のように見えた。生徒は朝から晩までほとんど詰めきりで、いつも三、四十人は欠かさなかったようだ。数学と漢文とは、その英語の先生がいなくなってから教わり出したように思うが、最初の先生は名も顔もまったく忘れてしまった。が、ただその家が外ヶ輪[#底本では「外ケ輪」]という兵営の後ろの町にあったことだけを覚えている。
二度目の漢文の先生は監獄の看守だった。背の低い、青い顔をした、ずいぶんみすぼらしい先生だった。それにその家もずいぶんみすぼらしい家だった。先生は朝早く役所へ出かけるので、僕はいつもまだ暗いうちに先生の家へ行った。生徒[#「生徒」は底本では「先徒
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