は、もう大ぶ古い頃に、どこかの田舎の連隊の将校集会所でドイツ語を教えているという話だった。登坂は一時水産で大ぶ儲けて、山陰道のどこかで土地の芸者を二人ばかりかこっていたというほどの勢いだったそうだが、十年ばかり前に失敗してアメリカへ行った。そして今でもまだ失意の境遇にいるらしい。箱田は朝鮮で検事か判事かをやっている。
僕はまた、壱岐坂上の貸本屋のほかに、神保町あたりのある貸本屋のお得意にもなっていた。そこには、小説本のほかに、いろんな種類のむずかしい本があった。僕は矢来町の下宿にいた時から引続いて、そこから哲学だの宗教だの社会問題だのの本を借りて来ては読んでいた。矢野竜溪の『新社会』は矢来町時代に、丘博士の『進化論講話』は壱岐坂時代かあるいはその少し後かに、幾度も繰返しては愛読した。
『新社会』は少し早く読みすぎたせいか、その読後の感興というほどのものは今何にも残っていない。しかし『進化論講話』は実に愉快だった。読んでいる間に、自分のせいがだんだん高くなって、四方の眼界がぐんぐん広くなって行くような気がした。今まで知らなかった世界が、一ページごとに目の前に開けて行くのだ。僕はこの愉
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