カルな憤怒の後に、その肉の力をもっとも発揮するのだった。
 しかし今晩はもう、僕は彼女のこの力の中に巻きこまれなかった。僕は彼女のこの力を感ずると同時に、なおさらに奮然としてそれに抵抗して起った。今晩の彼女の態度は、初めからそのふだんの執拗さや強情の少しもない、むしろ実にしおらしいおとなしい態度だった。が、このしおらしさが、彼女の手といってもいいくらいに、こうした場合にはきっと出て来るのだった。が、僕は最初からそれを峻拒していた。
 彼女は決然として自分の寝床に帰った。そしてじっとしたまま寝ているようだった。
 僕はいよいよだなと思った。こんどこそは本当にやるのだろうと思った。僕は仰向きになったまま両腕を胸の上に並べて置いて、いつでも彼女が動いたらすぐに起ちあがる準備をして、目をつぶったまま息をこらしていた。一時間ばかりの間に彼女は二、三度ちょっとからだを動かした。そのたびに僕は拳をかためた。
 が、やがて彼女は起き出して来た。そして僕の枕もとの火鉢のそばに坐りこんだ。
 僕はこれは具合が悪いなと思った。横からなら、どうにでもして防げるのだが、頭の方からではどうしても防ぎようがないと思った。しかし、今さら、こっちも起きるのも強ばらだと思った。ピストルで頭をやられてはちょっと困ると思ったが、しかし刃物なら何とか防ぎようがあると思った。ピストルはそう急に彼女の手にはいるまい。だから、兇器はきっと刃物だろうと思った。
「しかし、どんなことがあっても、こんどは決して眠ってはならない。眠れば、僕はもうお終いなのだ。」
 僕はそう決心して、やはり前のように目をつぶったまま両腕を胸の上に並べて、息をすまして、頭の向うでの呼吸を計っていた。その時、どこかで時計が三時を打つのを聞いた。僕はやはり息をすまして向うの動静を計っていた。
 ふと僕は、咽喉のあたりに、熱い玉のようなものを感じた。
「やられたな。」
 と思って僕は目をさました。いつの間にか、自分で自分の催眠術にかかって、眠ってしまっていたのだ。
「熱いところを見ると、ピストルだな。」
 と続いて僕は思った。そして前の方を見ると、彼女は障子をあけて、室のそとへ出て行こうとしていた。
「待て!」
 と僕は叫んだ。
 彼女はふり返った。
(これで僕は最初に話したお化のところまで戻った訳だ。そのお化の因縁話をすました訳だ。が、事件はまだ続く。僕はそれもすっかり話してしまわなければ、僕の責めは済まないだろう。で、もっと話を続けて行こう。)
 彼女はふり返った。
 僕はその前夜彼女が寝ている伊藤をにらみつけた、その恐ろしい殺気立った顔を見ると思いのほか、彼女がゆうべ僕に泣きついて来た時のその顔よりももっと憐れな顔を見た。
「許して下さい。」
 彼女がふり向くと同時に発したこの言葉が僕には意外だった。
 しかし、もうこうなった以上、僕は彼女を許すことができなかった。少なくともその瞬間の僕は、何という理窟はなしに、ただ彼女を捕まえてそこへ叩きつけなければやまなかった。
 僕は起きあがった。そして逃げようとする彼女を追うて縁がわまで出た。彼女はそこの梯子を走り下りた。僕も続いて走り下りた。そして中途で僕は彼女の背中へ飛び降りるつもりで飛んだ。が、彼女の方がほんの一瞬間だけ早かった。彼女は下の縁がわを右の方へ駆けて、七、八間向うの玄関のところからさらに二階の梯子段を登った。僕は梯子段を飛び下りた時から、急に足の裏の痛みと呼吸のひどく困難になって来たのを感じながら、なお彼女を追っかけて行った。
 その二階は、僕の居室の方の二階とは棟が違っていて、大きな二つの室の奥の方が、その夜は宿の親戚の女どもの寝室になっていた。彼女はその手前の室の中にはいって、紫檀の茶ぶ台の向うに立ちどまった。
「許して下さい。」
 彼女は恐怖で慄えながらまた叫んだ。
 が、僕はその茶ぶ台の上を踏み越えて彼女を捕まえようとした。彼女はまた走り出した。その奥に寝ていた女どもは目をさまして、互いにかじりついて、僕等の方を見つめながら慄えていた。
 僕は呼吸困難で咽喉がひいひい鳴るのを覚えながら、なお彼女を追っかけて行った。彼女はさっきの梯子段を降りて、廊下をもとの方へ走って、もとの二階へは昇らずに、そこから左の方へ便所の前に折れた。そしてその折れた拍子に彼女は倒れた。僕も彼女の上に重なって倒れた。
 僕はそれから幾分たったか知らない。ふと気がついて見ると、血みどろになって一人でそこに倒れていた。呼吸はもう困難どころではなくほとんど窮迫していた。
「これはいけない。」
 と僕は思いながら、ようやく壁につかまって起ちあがって、玄関の方へよろめいて行った。玄関のそばには女中部屋があった。僕は女中を起して医者を呼びにやろうと思ったのだ。が、その女中部
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