屋の前で僕はまた倒れてしまった。そして倒れると同時に、その板の間が血でどろどろしているのを感じた。
 女中は呼んでも返事がなかった。みんな二階の親戚の客におどかされて、一緒に奥の方へ逃げこんでいたのだ。しばらくして、その親戚の一人の年増の女がおずおずとそばへ来た。
「あのね、すぐ医者を呼んで下さい。それから東京の伊藤のところへすぐ来るように電話をかけて下さい。それからもう一つ、神近の姿が見えないんだが、どうかすると自殺でもするかも知れないから、誰か男衆に海岸の方を見さして下さい。」
 僕はこれだけのことを相変らず咽喉をひいひい鳴らしながら、ようやくのことで言った。そして僕は煙草を貰って、その咽喉の苦しさをごまかしていた。傷はピストルではなく、刃物だということもその時にようやく分った。
 やがて、どやどやと警官どもがはいって来た。そしてその一人はすぐと僕に何か問い尋ねようとした。
「馬鹿! そんなことよりもまず医者を呼べ。医者が来ない間は貴様等には一言も言わない。」
 僕はその男をどなりつけながら、頭の上の柱時計を見た。三時と三十分だった。
「すると、眠ってからすぐなのだ。」
 と僕は自分に言った。
 それから十分か二十分かして、僕は自動車で、そこからいくらもない逗子の千葉病院に運ばれた。そしてすぐ手術台の上に横たわった。
「長さ……センチメートル、深さ……センチメートル。気管に達す……。」
 院長が何か傷の中に入れながら、助手や警官等の前で口述するのを聞きながら、僕は、
「きょうの昼までくらいの命かな」
 と、ちょっと思ったまま、そのまま深い眠りに陥ってしまった。



底本:「大杉栄全集第十二巻」現代思潮社
   1964(昭和39)年12月25日
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:kompass
校正:小林繁雄
2002年1月18日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全59ページ中59ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
大杉 栄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング