ら。」
 彼はそう言って、出はいり口のドアをいったん開けて見てまた閉めて、それにピチンと鍵をおろした。
「ははあ、何か間違いでもあった時に、僕が逃げられない用心をしているんだな。」
 僕は笑いたいのをこらえて、黙って彼の処作を見ていた。彼はさっき給仕が閉めた窓のところへ行って、一々それに窓掛けをおろして、そして丁寧にお辞儀をしてまた隣りの室との間のドアの向うに消えた。
「すると、後藤はあのドアからはいって来るんだな。」
 僕はそう思って、そのドアの方に向って、煙草をくゆらして待っていた。
 が、待っているというほどもなく、すぐ後藤がはいって来た。新聞の写真でよく見ていた、鼻眼鏡とポワンテュの鬚との、まぎれもない彼だ。
「よくお出ででした。いや、お名前はよく存じています。私の方からも是非一度お目にかかりたいと思っていたのでした。きょうはこんな場合ではなはだ失礼ですが、しかし今ちょうど食事もすんで、ちょっとの間なら席をはずしてもおれます。私があなたに会って、一番さきに聞きたいと思っていたことは、どうしてあなたが今のような思想を持つようになったかです。どうです、ざっくばらんに一つ、その話をしてくれませんか。」
 少々赤く酔を出している後藤は、馬鹿にお世辞がよかった。
「え、その話もしましょう。が、今日は僕の方で別に話を持って来ているのです。そしてその方が僕には急なのだから、今日はまずその話だけにしましょう。」
「そうですか。するとそのお話というのは?」
「実は金が少々欲しいんです。で、それを、もし戴ければ戴きたいと思って来たのです。」
「ああ金のことですか。そんなことならどうにでもなりますよ。それよりも一つ、さっきのお話を聞こうじゃありませんか。」
「いや、僕の方は今日はこの金の方が重大問題なんです。どうでしょう。僕今非常に生活に困っているんです。少々の無心を聞いて貰えるでしょうか。」
「あなたは実にいい頭を持ってそしていい腕を持っているという話ですがね。どうしてそんなに困るんです。」
「政府が僕等の職業を邪魔するからです。」
「が、特に私のところへ無心に来た訳は。」
「政府が僕等を困らせるんだから、政府へ無心に来るのは当然だと思ったのです。そしてあなたならそんな話は分ろうと思って来たんです。」
「そうですか、分りました。で、いくら欲しいんです。」
「今急のところ三、四百円あればいいんです。」
「ようごわす、差しあげましょう。が、これはお互いのことなんだが、ごく内々にして戴きたいですな。同志の方にもですな。」
「承知しました。」
 金の出道というのは要するにこうなのだ。そして僕は三百円懐ろにして家に帰った。
 その金は、しばらく金をちっとも持って行っていない保子のところへ五十円行き、なおもうぼろぼろになった寝衣一枚でいる伊藤に三十円ばかりでお召の着物と羽織との古い質を受けださせて、まだ二百円は残っていた。それにもう五十円足せば、市外に発行所を置くとすれば、月刊雑誌の保証金には間に合うのだ。
「が、もう雑誌なぞはどうでもいい。あしたはその金を伊藤に持って来て貰って、こいつに投げつけてやるんだ。」
 僕は一人でそう決心した。
 また、彼女が伊藤の着物のことを言いだしたのから思いだすと、ふだん人の着物なぞにちっとも注意しない彼女が、そういえば伊藤の風ていをじろじろと見ていた。彼女はもう大ぶ垢じみたメリンスの袷(それとも単衣だったか)に木綿の羽織を着ていた。
「そうそう、彼女はいつか僕にいくらかの金をつくるために、その着物を質に入れていたのだっけ。せめてはあれだけでも出して置いてやるのだった。」
 と僕も気がついた。が、今になってそんな気がついたところで仕方がない。
「とにかくあしたは、あいつに金を投げつけてやるんだ。」

   六

 少しうとうとしていると、誰かが僕の布団にさわるような気がした。
「何をするんだ?」
 僕はからだを半分僕の布団の中に入れようとしている彼女を見てどなった。
「(十二字削除)。」
 彼女は、その晩初めて口をききだした時と同じように、泣きそうにして言った。
「いけません、僕はもうあなたとは他人です。」
「でも、私悪かったのだから、あやまるわ、ね、話して下さいね。ね、いいでしょう。」
「いけません。僕はそういうのが大きらいなんです。さっきはあんなに言い合って置いて、その話がつきもしない間に、そのざまは何ていうことです。」
 僕は彼女の訴えるような、しかしまた情熱に燃えるような目を手で斥けるようにしてさえぎった。彼女のからだからはその情熱から出る一種の臭いが発散していた。
 ああ彼女の肉の力よ。僕は彼女との最初の夜から、彼女の中にそれをもっとも恐れかつ同時にそれにもっとも引かれていたのだ。そして彼女は、そのヒステリ
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