はごめんだ。」
「愚痴なんか言いやしないわ、だけど……」
「そのだけどが僕はいやなんだ。」
「そう、それじゃそれも止すわ。」
「それよりも、この一、二日以来のお互いの気持でも話そうじゃないか。僕はもう、こんな醜い、こんないやなことは飽き飽きだ。ね、お互いにもう、いい加減打ちきり時だぜ。」
「ええ、私ももう幾度もそう思っているの、だけど……」
「まただけどだね。そのだけどでいつも駄目になるんだ。こんどこそはもうそれを止しにしようじゃないか。」
「だけど、もっと話したいわ。」
「話はいくらでもするがいいさ。しかし、もう、お互いにこんないやな思いばかり続けていたって、仕方がないからね。本当にもう止しにしようよ。」
「ええ……」
 彼女はまだ何か話したそうに見えた。が、その話のさきを一々僕に折られてしまうので、こんどは黙って何か考えているようだった。彼女がこうして折れて来ると、僕は彼女の持っている殺意にまで話を進めることができなくなった。そして僕はただ彼女のこの上折れて来ようとするのを防ごうとだけ考えた。
 が、彼女はそれっきり黙ってしまった。僕も黙ってしまった。そして僕は、これだけのことでも言ったので多少胸がすいたものと見えて、何も考えないで静かに眠ったようにしていることに、こんどは成功した。
「ね、ね。」
 それからまた一、二時間してのことだろう。彼女は僕を呼び起すように呼んだ。
「ね、本当にもう駄目?」
「駄目と言ったら駄目だ。」
「そう、私今何を考えているのか、あなた分る?」
「そんなことは分らんね。」
「そう、私今ね、あなたがお金のない時のことと、ある時のこととを考えているの。」
「というと、どういう意味だい?」
「野枝さんが綺麗な着物を着ていたわね。」
「そうか、そういう意味か。金のことなら、君にかりた分はあした全部お返しします。」
 僕は彼女に金のことを言いだされてすっかり憤慨してしまった。
「いいえ、私そんな意味で……」
 彼女は何か言いわけらしいことを言っていた。
「いや、金の話まで出れば、僕はもう君と一言もかわす必要はない。」
 僕は断じてもう彼女の言いわけを斥けた。そして彼女がまだ二言三言何か言っているのも受けつけずに黙ってしまった。
 いつでもあのくらい気持よく、しかも多くは彼女から進んで、出していた金のことを、今になって彼女が言いだそうとは、まったく僕には意外だった。そしてこの場合、金ができたから彼女を棄てるのだ、というような意味のことを言われるのも、まったく意外だった。そしてそれが意外なほど、僕は実に心外に堪えなかった。
 金の出道は彼女には話してなかった。それも彼女には不平の一つらしかった。が、その頃にはもう、僕は彼女に同志としてのそれだけの信用がなかったのだ。僕はその金を時の内務大臣後藤新平君から貰って来たのだ。
 その少し前に、伊藤がその遠縁の頭山満翁のところへ金策に行ったことがあった。翁は今金がないからと言って杉山茂丸君のところへ紹介状を書いた。伊藤はすぐ茂丸君を訪ねた。茂丸君は僕に会いたいと言いだした。で、僕は築地のその台華社へ行った。彼は僕に「白柳秀湖だの、山口孤剣だののように、」軟化をするようにと勧めた。国家社会主義くらいのところになれと勧めた。そうすれば、金もいるだけ出してやる、と言うのだ。僕はすぐその家を辞した。
 茂丸君は無条件では僕に一文も金をくれなかった。が、その話の間に時々出た「後藤が」「後藤が」という言葉が、僕にある一案を暗示してくれた。ある晩僕は内務大臣官邸に電話して、後藤がいるかいないかを聞き合わした。後藤はいた。が、今晩は地方長官どもを招待して御馳走をしているので、何か用があるなら明日にしてくれとのことだった。
「なあに、いさえすればいいのだ。」
 僕はそう思いながらすぐ永田町へ出かけた。
「御覧の通り、今晩はこんな宴会中ですから……」
 たぶん菊池とかいう秘書官らしい男が僕の名刺を持って挨拶に出て来た。
「いや、それは知って来ているんです。とにかく後藤にその名刺を取り次いで、ほんのちょっとの時間でいいから会いたい、と言って貰えばいいんです。」
 秘書官は引っこんで行った。そしてすぐにまた出て来て、「どうぞ、こちらへ」と案内した。
 宴会は下のようだったが、僕は二階のとっつきのごく小さな室へ案内された。テーブルが一つに椅子が三つばかり置いてあるだけで、飾りというほどの飾りもない室だった。
 すぐに給仕がお茶を持って来た。が、その給仕はお茶をテーブルの上に置くと、ドアの右手と正面とにある三つばかりの窓を、一々開けては鎧戸をおろしてまた閉めて行った。変なことをするなと思っていると、こんどは左手の壁の中にあるドアを開けて、さっきの秘書官がはいって来た。
「今すぐ大臣がお出でですか
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