こへ、しばらくして、彼女がやって来た。顔色も態度も、さっきとはまるで別人のように、落ちついていた。
「私、あなたを殺すことに決心しましたから。」
彼女は僕の前に立って勝利者のような態度で言った。
「うん、それもよかろう。が、殺すんなら、今までのお馴染甲斐に、せめては一息で死ぬように殺してくれ。」
僕はその「殺す」という言葉を聞くと同時に、急に彼女に対する敵意の湧いて来るのを感じたのであったが、戯談半分にそれを受け流した。
「その時になって卑怯なまねはしないようにね。」
「ええ、ええ、一息にさえ殺していただければね。」
二人はそんな言葉を言いかわしながら、しかしもう、お互いの顔には隠しきれない微笑みがもれていた。
彼女はまたもとの姉さんに帰ったのだが、僕と伊藤とはこの姉さんにあまりに甘えすぎたようだ。あまりに無遠慮すぎたようだ。それをあまりに利用しすぎたとまでは思わないが。そしてそのたびに彼女はヒステリーを起しはじめた。
ヒステリーとまでは行かんでも、その後彼女は、その生来の執拗さがますますひつっこくなった。いろんな要求がますます激しくなった。そして、それが満足されなければされないほど、それだけまたますますひつっこくなり、ますますうるさくなるのであった。が、ここに白状して置かなければならないのは、僕はだんだんこの執拗さにいや気がさして行ったのであるが、しかしまた、その執拗さが僕にとっての一つの強い魅力ででもあったことだ。
彼女は折々その執拗さを遠慮した。が、それはいつも、さらに数倍の執拗さをもって来る前ぶれのようなものだった。そしてその執拗さが満足されないと、彼女はきまってそのヒステリーを起した。そしてそのたびに、彼女の口から、例の「殺す」という言葉が出た。その言葉を聞くと、僕は奮然として、その席を起って出た。
かくして僕は彼女から三度ばかり絶交を申渡された。が、その翌日には、彼女はきっと謝まって帰って来るのだった。そしてその最後に謝まって来た時には、僕は彼女に、もう一週間熟考して見るがいいと言って、いったんそれを斥けた。彼女はその一週間が待てないで、その翌日また謝まって来た。
「しかし、こんどはもう、断然その絶交をこっちから申渡すんだ。」
僕は原稿紙を前に置いたまま、それにはただ「善政とは何ぞや」という題を書いただけで、独り言のように言った。
「こんどもし、君が殺すと言ったり、またそんな態度を見せた場合には、即刻僕は本当に君と絶交する。」
最後の仲直りの時に僕は彼女にそう言ったのだ。そして今、ゆうべ僕は、彼女の顔の中に確かに殺意を見たのだ。
五
彼女は散歩から帰って来た。僕は机に片肱をもたせかけて、熱でぽっぽとほてる頭を押えていた。彼女は僕が一行も書けないでいる原稿紙の上を冷やかにあざ笑うようにして見ていた。
夕飯を食うと、僕はまたすぐに寝床をしかして、横になった。彼女はしばらく無言で坐っていたが、やはりまたそばの寝床に寝た。僕はもうできるだけ何にも考えないようにして、ただ静かに眠ることだけを考えていた。が、長年の病気の経験から、熱のある時に興奮をさける、習慣のようになっているこの方法も成功しなかった。ふと僕はゆうべの彼女の恐ろしい顔を思い出した。
「ゆうべは無事だった。が、いよいよ今晩は僕の番だ。」
僕はそう思いながら、彼女がどんな兇器を持って来ているだろうかと想像して見た。彼女はよく一と思いに心臓を刺すと言っていた。刺すとなれば短刀だろう。が、彼女はそれをどこに持っているのだろう。彼女はごく小さな手提げを持っていた。しかし、あんな小さな手提げの中では、七、八寸ものでも隠せまい。すると彼女はそれを懐ろの中にでも持っているのかな。とにかく、刄物なら、何の恐れることもない。彼女がそれを振りあげた時にすぐもぎ取ってしまえばいいのだ。だが、もしピストルだと、ちょっと困る。どうせ、ろくに打ちようも知らないのだろうが、それにしてもあんまり間が近すぎる。最初の一発さえはずせば、もう何のこともないのだが、その一発がどうかすれば急所に当るかもしれない。しかし、それも滅多にはないことだろう。一発どこか打たして置いて、すぐ飛びかかって行けばいいのだ。女の一人や二人、何を持って来たって、何の恐れることがあるものか。すぐにとっちめて、ほうり出してしまえばいいのだ。
「ね、何か話ししない?」
一、二時間してからだろう。彼女は僕の方に向き直って、泣きそうにして話しかけた。彼女にはこの黙っているということが何よりもつらいのだ。寂しくて堪らないのだ。どなり合ってでも、何か話していたいのだ。そして今は、もう堪らなくなって、何もかもいっさい忘れたようになって、数日前の彼女と僕とに帰って話したかったのだ。
「してもいい。が、愚痴
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