三、四度も出た。が、こんどは、それを初めて僕の方から言い出そうと思った。
 最初は、彼女との関係後二カ月ばかりして、さらに伊藤との関係ができかかった時、彼女からずいぶん手厳しくそれを申渡された。
「きょうはきっとあなた、どこかでいいことがあったのね。顔じゅうがほんとうに喜びで光っているわ。野枝さんとでも会って?」
 ある晩遅く彼女を訪ねた時、顔を見るとすぐ彼女は言った。僕はそれまではそんなに嬉しそうにしていたとも思わなかったが、そう言われて初めて、彼女の言葉通りに顔じゅうが喜びで光っているような気がした。そして実際また、彼女の言った通り、今伊藤と会って来たばかりだったのだ。しかも、いつも亭主が一緒なのが、その日は初めて二人きりで会って、初めて二人で手を握り合って歩いて、初めて甘いキスに酔うて来たのだった。僕は正直にその通りを彼女に話した。
「そう、それやよかったわね、私も一緒になってお喜びしてあげるわ。」
 彼女はもうよほど以前から僕等二人がよく好き合っていることを知っていた。そして、ただ好き合っているばかりで、それ以上にちっとも進まないことをむしろ不思議がっていた。で、自分が僕等の姉さんででもあるかのようにして、ほんとうに喜んでくれたようだった。
 彼女には、この姉さんというような気持が、ずいぶんにあった。そしてこの気持の上から、僕や伊藤のわがままをいつも許してくれ、また自分からも進んでいろいろなわがままをさせていた。彼女はもう三十だった。そして伊藤は彼女より七、八つ下だった。
 僕が彼女と初めて手を握った時にも、彼女は伊藤に対する僕の愛を許していた。まだどうにもなっていない、今からもどうなるか見こみはちっともない、しかし僕は非常に伊藤を愛している、今こうして相抱き合っている彼女よりも以上に愛している、僕はこの事実を偽ることはできないと言った。彼女はそれを承認した。しかも、ちっともいやな顔は見せないで、笑いながら承認した。
「たとえば、僕にはいろんな男の友人がいる。そしてその甲の友人に対するのと乙の友人に対するのと、その人物の評価は違う。また尊敬や親愛の度も違う。しかし、それが僕の友人たるにおいては同一だ。そしてみんなは、各々自分に与えられた尊敬と親愛との度で満足していなければならない。俺は乙よりも尊敬されないから、あいつの友人になるのはいやだ、などという馬鹿な甲はいない。」
 というのが僕の友人観兼恋愛観だった。僕は友人と恋人との間に大した区別を設けたくなかった。
 が、理窟はまあどうでもいいとして、とにかく彼女は、僕の心の中での彼女と伊藤との優劣を認めたのだ。と同時にまた、その尊敬や親愛の対象となるものの、質の違っていることも認めたのだ。そして彼女は、この優越を蔽うために、年齢の上からの自分の優越を考え出したのだ。しかし反対にまた、彼女より年の多い保子に対しては、彼女は自分の知力の優越を考えていた。そしてやはりこの優越感の上から、保子に対してまでも姉さんぶった心の態度を持っていた。この姉さんぶるという態度には、彼女の性格の一種の仁侠もあるのであるが、しかし彼女がその競争者に対してどうしても持ちたい優越感がそれを非常に助けていたのだ。
 実際彼女はこの優越ということをよく口にしていた。そして彼女があらゆる点において優越を感じていた保子に対しては、ただ憐憫があるばかりで、ほとんど何の嫉妬もなかった。それからもう一人、これは今ちょっとその人の名を言えないが、やはり女文士でかりにFというのがあった。そのFと僕とのごく淡い関係についても、彼女はやはり自分の優越感から何の嫉妬をも感じていなかった。むしろ一種の興味をもってすら見ていた。
 その晩は僕は麻布の彼女の家に泊った。そして翌日、保子のいる逗子の家に帰った。するとたぶんその翌日の朝だ、僕は彼女から本当に三行半と言ってもいい短かい絶縁状を受取った。それは「もし本当に私を思っていてくれるのなら、今後もうお互いに顔を合せないようにしてくれ。では、永遠にさよなら」というような意味の、あまりに突然のものだった。僕はすぐ東京へ出た。そして彼女をその家に訪うた。が、彼女は僕の顔を見るや、泣いてただ、「帰れ帰れ」と叫ぶのみで、話のしようもなかった。そして僕は何かをほうりつけられて、その家を逐い出された。
 僕はすぐ宮島の家へ行った。宮島の細君は彼女にとってのほとんど唯一の同性の友達だった。
「ゆうべはひどい目に会ったよ。神近君が酔っぱらって気違いのようにあばれ出してね。そして君のことを『だました! だました!』と言って罵るんだ。ようやくそれを落ちつけさして、家まで連れて行って、寝かしつけて来たがね。実際弱っちゃったよ。」
 宮島は、僕が彼女の話をすると、本当に弱ったような顔をして話した。
 そ
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