ただ繰返した。そして僕は引返して来たおげんさんにすぐ寝床を敷くようにと命じた。
朝秋谷で汗をかいたり風にふかれたりしたせいか、そしてその上に湯にはいったせいか、少し風邪気味で熱を感じたのだ。肺をわずらっていた僕には、感冒はほとんど年じゅうのつきものであり、そしてまた大禁物だった。が、ちょっとでも風邪をひくと、僕はすぐ寝床につくのを習慣としていた。
が、その時には、それよりむしろ、神近と相対して坐っていて、何か話ししなければならないのが、何よりも苦痛だった。彼女がこの室にはいって来て、伊藤の湯上り姿に鋭い一瞥を加えて以来、僕は彼女の顔を見るのもいやになっていたのだ。
彼女は疲れたからと言ってすぐ寝床にはいった。僕は少し眠ったようだった。
夜十時頃になって、もうとうに東京へ帰ったろうと思っていた伊藤から、電話がかかって来た。ホテルの室の鍵を忘れたから、逗子の停車場までそれを持って来てくれというのだ。僕は着物の上にどてらを着て、十幾町かある停車場まで行った。彼女は一人ぽつねんと待合室に立っていた。
「いったん汽車に乗ったんですけれど、鍵のことを思いだして、鎌倉から引返して来ましたの。だけどもう今日は上りはないわ。」
彼女はそう言って、一人でどこかの宿屋に泊って明日帰るからと言いだした。
僕は彼女を強いて、もう一度日蔭に帰らした。いっそ、三人でめいめいの気まずい思いを打明け合って、それでどうにでもなるようになれと思ったのだ。が、こうして彼女が帰ると、室の空気は前よりももっといけなかった。そして三人とも、またほとんど口をきかずに、床をならべて寝た。
神近も伊藤もほとんど眠らなかったようだ。が、僕は風邪をひいた上に夜ふけてそとでをしたので、熱が大ぶ高くなって、うつらうつらと眠った。そして時々目をさましては彼女等の方を見た。神近はすぐ僕のそばに、伊藤はその向うにいた。伊藤は顔まで蒲団をかぶって、向うを向いてじっとして寝ていた。僕がふと目をあけた時、僕は神近が恐ろしい顔をして、それを睨んでいるのをちらと見た。
「もしや……」
とある疑念が僕の心の中に湧いた。僕は眠らずにそっと彼女等を窺っていなければならないときめた。が、いつの間にか熱は僕を深い眠りの中に誘ってしまった。
四
目をさました時にはもうかなり日が高かった。神近も伊藤も無事でまだ寝ていた。僕はほっとした。
朝飯を済ますと、伊藤はすぐ出て行った。勿論東京へ帰ったのだ。が、神近はそれを疑っているようだった。もともと僕と一緒にずうといるつもりで来たので、今は自分が来たからちょっと近所のどこかで避けて、また自身が帰ればすぐここへ来るのだろう、というような口ぶりだった。彼女は割合に人が好くて、ごく人を信じやすいかわりには、疑い出すとずいぶん邪推深かった。僕はもう彼女の邪推と闘うには、あまりに彼女に疲れていた。そうでなくても、きのう彼女が「侵入」して来て以来の僕の気持は、とうてい静かに彼女と話しすることを許さなかった。しかしまた、彼女をすっぽぬかして伊藤と一緒にここへ来ているという弱点は、彼女に対してあまり強く出ることも許さなかった。で、彼女のそんな疑いに対しては、ただ一言「馬鹿な」と軽く受け流して、相手にせずにいた。
そして昼飯が済むとすぐ、僕は苦りきった顔をして、机に向って原稿紙をとり出した。彼女は仕方なしにおげんさんの案内で海岸へ遊びに行った。
その時はちょうど寺内内閣ができた時で、僕は『新小説』の編集者から、寺内内閣の標榜するいわゆる善政についての批評を書くことを頼まれていた。憲政会は三菱党だ。政友会は三井党だ。したがってこの二大政党には、今日の意味での善政、すなわち社会政策を行うことはとうていできない。彼等は資本家党なのだ。官僚派は資本家の援助がなければ何事もできないことはよく知っている。しかし彼にはこの資本家の上に立つ政治家だという、ともかくもの自尊がある。そしてなお、この資本家の横暴と対抗するには、労働者の援助をかりなければならない。そこでその政治は、善政は、すなわち社会政策をとるほかはない。僕はざっとそんなふうに考えていた。そして、なおそれを歴史の事実の上から論ずるつもりで、桂がその晩年熱心な社会政策論者であったことや、またドイツのビスマルクの例を詳しく書いて見ようと思っていた。
僕は誰だかの『ビスマルクと国家社会主義』をその参考に持って来ていた。で、まずざっとその本を読んで見ようと思った。
が、こうして落ちついて机の前に坐ると、急にまた風邪の熱で頭の重いことが思い出されて来た。熱でばかりではない、いろいろな雑念で重いのだ。
僕は神近とはもうどうしてもお終いだと思った。彼女とできて半年あまりの間に、このもうお終いだという言葉が、彼女の口から
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