が、しかし確かに怨霊であるだろう女の姿を、真夜中に、半年も続けて見た話だ。
種子を割ってしまえば何でもないことであるだろうが、それはほかでもない、神近の怨霊だ。葉山の日蔭の茶屋の一番奥の二階で、夜の三時頃、眠っている僕の咽喉を刺して、今にもその室を出て行こうとする彼女が、僕に呼びとめられて、ちょっと立ちどまって振り返って見た、その瞬間の彼女の姿だ。その姿が、その後ほぼ半年もの間、伊藤と一緒に寝ている僕の足もとの壁に、ちょうどその時刻にはっきりと現れて来るのだ。毎晩ではない、が時々、夜ふと目がさめる。すると、その目は同時にもう前の壁の方に釘づけにされていて、そこには彼女のその姿が立っているのだ。一と晩の間にこんなにもやつれたかと思われる、その死人のように蒼ざめた顔色の上に、ふだんでも際だって見える顔の筋が、ことさらにひどく際だって見えた。そして、びっくりしたように見ひらいたその目には、恐怖と、憐れみを乞う心とが、一ぱいに充ちていた。
「許して下さい。」
彼女は振り返って、僕が半分からだを起しているのを見て、泣き出しそうに叫びながら逃げ出した。
「待て。」
と、その前に僕は彼女を呼んだのだ。そして立ちあがって彼女を押えようとしたのだ。
が、そんな前後のことはいっさい断ち切られて、ただ彼女が振り返って見たその瞬間の彼女の姿だけが現れて来るのだ。
僕は、それが夢か現なのかよく分らないことが、よくあった。が、確かにそれが夢でないと思われたことも幾度もあった。そして、そのいずれの場合にも、僕が自分に気のついた時には、おびえたように慄えあがって、一緒に寝ている伊藤にしっかりとしがみついているのだった。が、それもまたほんの一時のことで、僕はまたさらに本当の自分に帰って、手を伸して枕もとの時計を見た。時計はいつもきまって三時だった。
「また出たの?」
「うん。」
と、伊藤はそれを知っていることもあった。が、ぶるぶる慄えたからだにしがみつかれながら、何にも知らずに眠っていることもあった。そして、よしそれを知っていても、僕のおびえが彼女にまでも移ることは決してなかった。彼女はいつも、
「ほんとにあなたは馬鹿ね。」
と、笑って、大きなからだの僕の頭を子供のように撫でていた。
実際僕は、このお化の時ばかりではない、何か恐い夢を見ると、きっと同じようにおびえるのだった。そしてその慄えが、どうかすると、目をさましてからもまだしばらくの間続くことがあった。
「ほんとにあなたは馬鹿ね。」
と、そんな時にもよく、僕は彼女に笑われた。僕はきっと心《しん》は非常に臆病者なのだ。それとも、僕の心の中には、無知な野蛮人の恐怖が、まだ多分に残っているのだ。
が、そんなにして、話を野蛮人のところまで引きもどす必要はない。僕は今ここで、僕が女の怨霊を見るに至った僕の心理の、科学的説明を試みようとしているのではないのだから。しかし、単にこの怨霊を見たという事実の話をするだけにしても、話は大ぶその以前に遡らなければならない。少なくとも、どうしてその女が僕を刺すに至ったかの、彼女と僕との関係の過去に遡らなければならない。
(僕は今、先きに数回本誌[#「本誌」は「改造」])に連載した自叙伝の続きとして、そのあとを数回飛ばしてこの一節を書きつつあるのであるが、その飛ばした数回ことにこの一節の前回については、何をどう書こうかという腹案がまだちっともできていないのだ。ただ、しばらく怠けていたあとの筆ならしに、すぐ書けそうに思われたこの題目を選んで書き出して見ただけのことなのだ。したがって、ここまで書いて来て、さてどこまで遡って話したらよかろうかとなると、まるで見当がつかない。仕方がない、やむを得ずんばそもそもの始めからでも書こうかということにまあきめたのだが、それにしても話の順序としては大ぶ困ることが多いようだ。が、とにかくまあ書いて行こう。)
二
そのよほど以前から、僕は日蔭のその室を僕の仕事部屋にしていた。文債がたまると、というよりもむしろそれをいい口実にして、よく一週間か二週間そこへ出かけて行っては遊んでいた。実は、今はもうその名も忘れてしまったが、よく僕の面倒を見てくれた女中も一人いたのだ。
その女中は、もう一年ほど前に、嫁に行っていなかった。が、お寺か田舎の旧家の座敷のような、広い十畳に、幅一間ほどの古風な大きな障子の立っている、山のすぐ下のその室一つだけでも、まだ僕を引きつけるには十分だった。
長い間いろいろと苦心していた雑誌の保証金が、ようやく手にはいった。その金がどうして手にはいり、またそれまでそれを得るためにどんなに苦しんだかについても、またあとで話しする機会があろうと思うが、とにかく当時の僕には、新しい小さな雑誌を一つ創めるということ
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