が、ほとんど唯一の当面の問題だった。二カ年間続いて来た『近代思想』を自ら廃刊して、新たに月刊『平民新聞』を起し、それがほとんど半カ年間発売禁止を重ねて、さらにまたもとの『近代思想』に帰り、そしてそれがまた発売禁止の連続を喰って倒れてから、僕等はもう半年あまり僕等の運動の機関を持たなかった。当時では、この機関がないということは、同時にまたほとんど運動がないというのと同じことだったのだ。僕は僕の恋愛問題がこのことに少なからざる責任のあることを感じていた。
しかし、いよいよ雑誌を始めるのには、もう少し金がいる。それに、その前に、古い文債も一とまず始末して置かなければならない。となって、単行本の翻訳を一つと雑誌の原稿を二つ抱えて、一カ月ばかりの計画でいつもの通り葉山へ出かけることになった。
一時はずいぶんこの雑誌の創刊に熱中していた神近も、その頃では、もう大ぶその熱がさめていた。僕が彼女にばかりではなく、なお伊藤にもいろいろと雑誌の相談をしかけて、伊藤がその保証金の奔走をしたりするようになってからは、彼女はむしろ僕等の計画に対して多少の反感をすら持っているようだった。そして、自分は別に宮島(資夫)の細君の麗子君と一緒に、何かやろうなどとも言っていた。しかし、それも麗子君にはあまりよく賛成されず、またひそかに頼みにしていた青山菊栄君(今の山川夫人)からは態よく拒られて、彼女は半ばそれを断念するとともに、その口惜しさのあまりを僕等の計画の上に反感として向けもしたようだ。そしてその上に彼女は、僕等の計画の上に、また僕や伊藤の上に、どうしてそんな金ができるものかという侮蔑や冷笑も持っていた。
実際僕等はずいぶん困っていた。そして僕や伊藤が困りきっている時には、いつも神近が助けに来てくれていた。そんな場合の十円か二十円の金すらも工夫のできない僕や伊藤に、数百円というまとまった金のできる筈のないことを思うのも、彼女としては当然のことであった。そして、今から思えばこうも邪推されるのであるが、彼女はそれを知りぬいていて、郷里まで金策に行くという伊藤に二度までも旅費をかしたのであった。
僕は神近に、雑誌の保証金が、それがどうしてできたかということは言わずに、ただできたというだけのことを話した。そして当分葉山へ行くということを話した。
「葉山へは一人で?」
保証金の方のことは彼女には大して興味がないようだった。が、彼女には、この「一人で」かどうかがよほど気になるらしかった。
「勿論一人だ。みんなから逃げて、たった一人になって仕事をするんだ。」
彼女はこの「たった一人に」ということにしきりに賛成した。そして、ゆっくりと、うんと仕事をして来るようにとしきりに勧めた。
当時僕は、女房の保子を四谷の家に一人置いて、最初は番町のある下宿屋の二階に、そしてそこを下宿料の不払で逐い出されてからは、本郷菊坂の菊富士ホテルというやはり下宿屋に、伊藤と二人でいた。二人とも、二人一緒にいることは、決して本意ではなかったのだ。二人とも、同じように家を棄てて出て、一人っきりになることを渇望していた。だが僕は、女房とまだ縁が切れずにいる上に、神近や伊藤との関係があった。伊藤は、家とともにその亭主とも縁は切れているが、新たに僕との関係があった。そして、こうした厄介な関係の上からのみでも、二人は一緒にいるうるさい生活に堪えられなかったのだ。
伊藤は最初からそのつもりで、家を出るとすぐ、赤ん坊を抱えて下総の御宿へ行った。そこは、かつて彼女の友人の平塚らいちょうが行っていて、彼女には話しなじみのところだったのだ。彼女は当分そこで、ほんとうの一人きりになって、勉強する覚悟だった。
僕は伊藤のこの覚悟さえ続いたら、すなわちいろんな事情がそれを続けることを許しさえしたら、僕等の三角関係というか四角関係というか、とにかくあの複雑な関係がもっと永続して、そしてあんなみじめな醜い結果には終らなかったろうと、今でもまだ思っている。が、その覚悟を毀したのは何よりもまず経済問題だった。そして、どんなことがどこへどう祟って[#「祟って」は底本では「崇って」と誤記]行くか分らない一例証として、ちょいとその話をして見よう。
伊藤はその以前と同じように、やはり原稿生活をして行くつもりだった。そして第一にまず、その家出のことを書いて、それを当時彼女が続きものを書いていた大阪毎日に売る予定だった。彼女はそれを大毎の菊池幽芳氏に交渉した。幽芳氏は彼女のそのものにかなり大きな期待を持って、激励と同時に承諾の返事を寄越した。それで、伊藤は落ちついて、御宿のある宿屋に腰を据えることになった。
ところが、その原稿が、幽芳氏の非常な称讃の辞がついて、送り返されて来たのだ。その時、ちょうど僕は御宿へ遊びに行って
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