きめた。それには、ちょうどいい、下宿の息子の友人で僕もそれを通じて知っていた早稲田中学卒業の何とかいう男があった。
 ところが、僕自身が受けた東京中学校の方は、僕の大嫌いな用器画が三題ともちっとも分らないで、その日でもう落第となった。換玉の方はうまく行って、しまいまで通過して行って、及第となった。そして僕はそのお蔭で順天中学校の五年級にはいった。

 しかし僕は、こうして話を年代通りに進めて行く前に、さっきの礼ちゃんのことが少し気にかかるので、というのは、あんな甘いしかも実も何にもない初恋の話の続きを今後まだあちこちに挾んで行くのは少し気が引けるので、少々年代を飛ばして、今ここで、話しついでにその後のいきさつをも一と思いにみんな話してしまおうと思うのだ。そしてこんどは、礼ちゃんの夫の隅田が死んだ時の二人の関係の場面になるのだから、前の話のいい対照になると思う。で、なおさらそれをまず書きたいのだ。
 礼ちゃんとはその後三度会う機会を持った。最初の一度は、ほとんど一度とも言えないくらいなので、その後四年ばかりして、僕が外国語学校を出て社会主義運動にまったく身を投じようとした頃のことだった。堺君や田川大吉郎君や故山路愛山君などが一緒になって、すなわち当時の社会民主主義者や国家社会主義者なぞが一緒になって、電車の値上反対運動をやった。そして日比谷で市民大会というのを開いて、そこで集まった群集の力で電車会社や市会なぞへ押しかけた。その前日だ。僕は堺君の家からあしたの市民大会のビラを抱えて、麹町三丁目あたりからそれを撒き歩きはじめた。その時僕はふと礼ちゃんらしい姿を道の向う側に認めた。ただそれだけのことなのだ。
 が、あとで聞くと、それは本当に礼ちゃんだったので、その市民大会のすぐあとで兇徒聚集という恐ろしい罪名で未決監に入れられた時に、礼ちゃんが僕の留守宅に見舞いに来てくれたそうだ。その頃僕は僕よりも二十歳ばかり上のある女と一緒に下六番町に住んでいたのだ。
 その次の二度目は、それからまた二、三年してからのことと思うが、彼女とその夫とを東京衛戍病院に訪ねた。どうして彼女等がそこにいることを知ったのか、また隅田がどんな病気でそこにいたのかも忘れてしまったが、僕がその病室にはいるといきなり礼ちゃんはそとへ飛び出して行ってしばらく姿を見せなかった。そして隅田はマッサージをやらしていた。
「はあ、奴、知らないお客だと思って逃げ出したんだ。」
 隅田は笑いながらそう言って、そのマッサージ師に彼女を呼びにやった。
 彼女は「まあ」と言って、びっくりしたような顔をしてはいって来た。
 その時隅田は、前に東京へ出て英語を勉強したいために憲兵になって、憲兵何とかいう学校にはいっていたが、その後どこかへ転任して、今病気で東京に帰っているんだというような話をしていた。そして僕が社会主義者になってもう二、三度入獄していることについても、困ったものだがしかし君の性格上仕方があるまいというようなことを言って、礼ちゃんはそれに「ええ、あんまりできすぎるからだわ」と弁解して附け加えていた。
 が、その時には僕は三十分ばかりで帰って、その後また彼女夫婦がどうなったかはしばらくちっとも知らなかった。

 すると、それからまた四、五年して、僕が例の神近や伊藤との複雑な恋愛関係にはいり始めた頃のこと、最後の三度目に、また突然と礼ちゃんが現れて来た。
 ある日僕は、僕がフランス語の講習会をやっていた牛込の芸術倶楽部へ行った。そして僕が借りていた一室のドアを開けると、そこの長椅子に礼ちゃんが一人しょんぼりと腰をかけているので、実にびっくりした。
「隅田は大変肺を悪くしましてね、熊本の憲兵隊長をしていたのをよして、今はこちらに来ているんです。そして寝たっきりでいるんですが、あなたが前に肺が大変悪かったのに今はお丈夫だということを聞きましてね、ぜひあなたにお会いして、あなたの肺のお話を聞きたいって言うんですの。お医者もいろんなことを言ってちっとも分りませんし、隅田ももう長い間の病気ですっかり弱りこんでいるんです。」
 礼ちゃんが、いろいろと詳しく話しているうちに、もうフランス語の時間が来て、生徒も二、三人やって来た。
「え、それじゃ明日お宅へ参ります。」
 と言って、僕は礼ちゃんを入口まで送り出した。
 翌日行って見ると、隅田の病気は話で聞いたよりもよほど悪いように見えた。今まで僕が見た、肺で死んだ幾人かの人の、もう末期に幾ばくもない時のような、いろんな徴候を持っていた。僕はこれやもう一月とは持つまいと思った。それでも、僕が悪かった時の容体やそれに対する手当などをいろいろと聞かれるので、僕も詳しくいろんな話をして、何大丈夫ですよなぞと慰めた。が、話しているうちにだんだん咳がひどくなる
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