子で行ってしまった。
「まあ、ほんとにいやな斎藤さん。お酒の臭いなぞぷんぷんさして。」
礼ちゃんはもう大ぶ行ってしまった後ろをふり返りながら呟いた。
「でもきっと、僕等があんまりふざけて来たもんだから、この辺の何かと間違えたかも知れないね。」
僕は少々気がさして言った。僕等が歩いていた西ヶ輪[#底本では「西ケ輪」]の通りというのは、その裏のお小人町と一緒に、主として軍人をお得意とする魔窟だったのだ。
「そうね。けれど、それじゃあんまり失礼だわ。」
礼ちゃんはまだ多少憤慨しながらも、しかし自分を省みない訳には行かなかった。
二人はしばらく黙って、しかし相変らずほとんど接触せんばかりに引っついて歩いて行った。
「ねえ、栄さん、私お嫁に行ってずいぶんつらいのよ。」
礼ちゃんはしんみりした調子で口を切った。
「どうして?」
「おしゅうとさんがそれやひどいのよ。お母さんの方はまだそうでもないんですが、お父さんがそれやむずかしい方でね。本当に箸のあげ下ろしにもお小言なんだけれど、そんなことはまだ何でもないわ。私がちょっとうちを留守にすると、その間に私のお針箱から何やかまで引掻き廻して何か探すんですもの。私もうそれが何よりもつらいわ。」
「へえ、そんなことをするんかね。」
僕は驚いて彼女の顔を見た。彼女は黙ってうつむいていた。が、僕にはそれ以上何といって話していいのか分らなかった。僕も仕方なしに黙ってしまった。
道は川のそばだのあまり家のこんでいないところだのでずいぶん寂しかった。それでも二人はまたしばらく黙って、引っつき合って歩いて行った。
礼ちゃんはまた口を切って、東京での僕の学校の様子を聞いた。僕は去年の暮に、この礼ちゃんのためにだけでも偉い人間になって見せるとひそかに決心したことを思い出した。が、そんなことを話そうとも思わず、またよし思ったとしても話しすることはできずに、ただ礼ちゃんの聞くままに受け答えしていた。そしてとうとう礼ちゃんのうちのすぐ近くまで行った。
僕はもう帰ると言いだした。礼ちゃんはぜひちょっと寄って行けと引きとめた。
「僕はいやだ。さっきの斎藤さんのように、また隅田さんに変に思われるかも知れないからね。」
僕はそんなことを言うつもりでもなく、ふいと戯談のように言ってしまった。
「あら、いやな栄さん。それじゃいいわ。」
礼ちゃんは手をあげて打つまねをしながら、ちょっと僕をにらんだかと思うと、そのままばたばたと駈けだしてうちへはいってしまった。
僕はぼんやりしたようになってうちへ帰った。
翌日、礼ちゃんはまたうちへ来た。そしてその後も、毎日、日に一度はきっとやって来た。
母の死骸がうちにあった間は、二人とも顔を見合わしても先夜のことなどまるで忘れたようにしていたが、そしてまた実際いろんなほかの人達と一緒に母の死についての歎きに胸を一ぱいにしていたが、葬式が済んだ翌日からは、二人とも顔さえ合せれば、もう母の死のことなどは忘れたようになって、そしてまだほんの子供のような気になって、先夜二人で門を出た時と同じように、一緒に笑い興じたり騒いだりばかりしていた。
例の綺麗な細君もほとんど毎日のように見舞いに来た。そして二人のそんなふうなのをそばで黙ってにこにこしながら眺めていて、時々、本当にお二人は仲善さそうね、なぞとからかっていた。
お祖母さんは苦々しそうにして、いつも顔をしかめていた。
この綺麗な細君は、その後、日露戦争の留守中に何か不都合なことがあったとかで離縁になったというように聞いたが、そしてそれから間もなく一度銀座でたしかにその人らしい顔をちょっと見たのだが、どこにどうしていることか。
しかし、学校の入学試験をすぐ目の前に控えていた僕は、いつまでもそうしていることができなかった。母の葬式が済んでから一週間目くらいで、僕はまた上京した。そしてまた、母のことも礼ちゃんのことも綺麗な細君のことも、何もかも忘れたようになって、勉強しだした。
三
十月の初めになって、僕は東京中学校(今はもうないようだ)と順天中学校との五年の試験を受けた。
今はどうか知らないが、その頃の東京の私立のへぼ中学校では、ほとんど毎学年毎学期に各級の入学試験をやった。そしてその毎学期の初めに二、三度生徒募集をして、そのたびに試験を受けさしては受験料を儲けるのを例としていた。東京中学校のも順天中学校のもその最後の第三回目の生徒募集の時だった。
僕はそのどっちかにどうしてもはいらなければならないと思った。が、その試験は二つともほとんど同時に行われるのだった。僕はもう自分の学力には自信があった。しかし、万一の時にはと思って、少し早くからはじまる東京中学校のは自分で受けて、順天中学校のは換玉を使うことに
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