ので、僕はあんまり長く話ししていてはいけまいと思って、みんながしきりにとめるのも聞かずに、礼ちゃんにだけそっと僕の思った通りのことを話して、いい加減に切りあげて帰った。
 その後も折々見舞おうとは思ったのだが、僕は伊藤の行っている九十九里の御宿へ行ったり来たりしていて、そのひまがちっともなかった。そして、そうこうしているうちに、礼ちゃんから隅田死亡という知らせを受けとった。
 さっそく行って見ると、隅田の死骸のそばでは、大勢の男女が集まって、大きな珠数のような綱のようなものをみんなでぐるぐる廻しては、ナムアミダー、ナムアミダーと夢中になって怒鳴っていた。下のほかの室にも僕の知らない大勢の人がいた。礼ちゃんはすぐ僕を二階へ案内して行った。
 僕は今でもまだそうだが、死んだ人の家へ行ってどうお悔みを言っていいか知らなかった。で、黙ってただお辞儀をした。
「やっぱりあなたのおっしゃった通りでしたわ。」
 礼ちゃんはすっかりやつれて泣顔をしながらも、それでもいつもの生々としたはっきりした声で話しだした。
「私こんなことを言っちゃいけないんでしょうけれど、隅田のなくなることはもうとうから覚悟していましたし、今じゃ隅田のなくなった悲しみよりも私のこれからのからだの方がよっぽど心配なんですの。」
 僕は来る早々意外なことを聞くものだと思った。
「経済上の心配じゃないんです。それはどうとかしてやって行けます。けれど、隅田がなくなって方々から親戚のものが集まって来てから、私今までまるでいじめられ通しでいるんです。そしてこれからもたぶん一生いじめられ通しで行くんだと思うんです。」
 僕はますます意外なことを聞くものだと思った。そしてやはり黙ったまま聞いていた。
「隅田の国の方の人が来るとすぐ、私をつかまえて、おやお前はまだ髪を切らずにいるんかい、と言うんでしょう。私、今時まだこんなことを言う人があるのかと思って、何とも返事ができなかったくらいですわ。するとこんどは、壁にかけてあるヴァイオリンを見つけて、ああこれは何とかさんにすぐあげておしまい、後家さんにはもう鳴物などいっさい要らないんだから、と言うんですもの。私、髪なんか切ることは何とも思いませんわ。また、ヴァイオリンなどもちっとも欲しかありませんわ。けれども今そんなにして、みんなの言うように本当の尼さんのようになったところで、それがいつまで辛棒できるかと思うと、自分でも恐ろしくなりますの。私今まで軍人の奥さんで、ことに日露戦争の間に、旦那が戦死してすぐ髪を切った方をたくさん知っていますわ。そしてそれが二、三年か四、五年かしてどうなったかもよく知っていますわ。そのまま立派な未亡人で通した方はまるでないんですもの。そして本当の尼さんのような生活にはいった人ほど、それがひどいんですもの。」
 僕はただの平凡な軍人の細君と思っていた彼女が、これほどはっきりと、いわゆる未亡人生活を見透しているのに驚いた。
「それであなたはどうしてもその辛棒ができないというんですか。」
 僕は彼女がそれについてどこまで決心しているのかを問いただそうと思った。
「いいえ、どこまでも辛棒して見るつもりです。今私は隅田の郷里に帰って、世間とのいっさいの交渉を断って、ただ一人の子供を育てあげることと、隅田の位牌を守って行くこととの、本当の尼さんのような生活をするように、毎日みなさんから責められています。しかしそれも辛棒して見るつもりです。どこまでそれで辛棒できるか知りませんが、とにかくできるだけどこまでも辛棒して行きます。」
「けれどもその辛棒ができなくなる恐れがあるんでしょう。その時にはどうするつもりなんです。」
「え、それが心配なんですの、恐ろしいんですの。けれど、やっぱり、どこまででも辛棒しますわ。」
「で、あなたの方のお父さんやお母さんはどう言っているんです。」
「私には可哀相だ可哀相だと言っていますが、やはりいったん隅田家へやった以上は、隅田家の言う通りにしなければならんと言っています。」
「あなたがそうまで決心しているんなら、それでもいいでしょう。しかし、できるだけやはり辛棒はしない方がいいです。辛棒はしても、もうとてもできないと思う以上のことは決して辛棒しちゃいけません。それが堕落の一番悪い原因なんです。」
「でも、それでも辛棒しなきゃならん時にはどうしましょう。」
「いや、辛棒しなきゃならん理窟はちっともないんです。そんな場合には、もういっさいをなげうって、飛び出すんです。すぐ東京へ逃げていらっしゃい。僕がいる以上は、どんなことがあっても、あなたを勝たして見せます。」
「ええ、ありがとうございます。私本当にあなたをたった一人の兄さんと思っていますわ。けれど私、どうしても辛棒します。どこまでも辛棒します。ただね、本
前へ 次へ
全59ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
大杉 栄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング