った。僕はそこに突ったったまま、一体どうしたことなんだろうと思いながら、ぼんやりしていた。
そこへ、それが誰だったかはもう忘れてしまったが、とにかく母と親しくしていたそして僕も好きだったある軍人の細君がはいって来た。
「あなたはまあどうしたんです。お先きにいらっしたんですか。」
彼女もやはり目を泣きはらしながら、しかししっかりとした口調で叱るように言った。僕はその「お先きに」という言葉が何のことだか分らなかった。しかし、とにかく、
「いや、僕は今東京から来たんです。」
とだけ答えた。
「それじゃあなたは新潟へはいらっしゃらなかったんですか。」
「え、行きません、母は新潟にいるんですか。」
「ああ、それじゃあなたは何にも知らないんですね。まあ……」
と言いながら彼女はほろほろと涙を流した。
「母はもう死んだんですか。」
「ええ、きのう新潟病院でおなくなりになりました。そして、きょう、もうすぐみなさんでこちらへお帰りの筈です。」
僕はそう聞くと、なるほどうちのものは誰もいないなと気がついた。そして同時にまた、初めて自分で電報というものを受取った僕が、その差出人のところはちっとも見ずにただ中の「母危篤すぐ帰れ」というのだけを見て、驚いて向いの大久保から旅費をかりて上野の停車場へ駈けつけたことを思いついた。
「お着きです。」
という声がして、みんなが玄関へ出て行くのが聞えた。
「ああ、お着きだそうです」
彼女はぼんやりと考えている僕を促すように言って、玄関へ出て行った。僕もそのあとに随いて行った。
棺の前後に父や弟妹等やその他四、五人の人達が随いて、今車から降りたばかりのところだった。
あとで聞くと、さっき僕が車から降りた時にも、やはり「お着き」だと思って大勢出て来たのだが、僕がたった一人でしかもうろうろしながら「お母さんはどこにいます」なぞと聞くもんだから、これやきっと気でも変になったんじゃあるまいかと、みんながそう思ったんだそうだ。
母は卵巣膿腫、すなわち俗にいう脹満で死んだのだ。
その少し前に、九人目の子供を流産してからだを悪くしたので、しばらくどこかの温泉へ行っていたのだが、帰ってすぐ手術をすると言って新潟へ出かけたのだそうだ。しかも、「なあに、二週間もすればぴんぴんしたからだになって帰って来ますよ」と言って、大元気で出かけたのだそうだ。
「そんなふうでしたし、それにお母さまは栄は今試験前で勉強で忙しいんだから心配さしちゃいけないとおっしゃって、どうしてもあなたのところへお知らせするお許しが出なかったんですよ。」
母の死骸が着いた晩、三の町のお嬶といって、昔僕の家が新発田へ行ったその日から母の髪結いさんとして出はいりして、そしてその後髪結いをよしてからもずっと母の一番親しいお相手として出はいりしていた女が、お通夜をしながら僕に話しだした。僕が去年の夏、この自叙伝を書く準備に二十年目でそっと新発田へ行った時にも、僕が最初に訪ねたのはもういい婆さんになっていたこのお嬶だった。
「すると、三、四日もしないうちに、危篤という電報なんでしょう。で、私、お子さん方をみなさんお連れ申して参ったんですけれど、それやもう大変なお苦しみでしてね。注射でやっと幾時間幾時間と命をお止め申していたんです。時々、栄はまだかまだかとおっしゃりましてね、そしてあの気丈な方がもう苦しくて堪らないから早く死なしてくれ死なしてくれとおっしゃるんです。それでも、私がもうすぐお兄さまがいらっしゃいますからと言うと、うんうんとお頷き遊ばして黙っておしまいなさるんですもの。それや、どんなにかあなたをお待ち遊ばしたんですか。幾度も早く死なして死なしてとおっしゃるんですけれど、そのたびに私があなたのことを申しあげると、頷いては黙っておしまいなさるんですもの。」
お嬶は一晩じゅう、ほとんどこの話ばかり繰返して言って聞かしては、自分も泣きまた僕をも泣かした。
「それに、お母さまは、お嬶丈夫になってすぐ帰って来るからねと大きな声でおっしゃってお出かけなすったんだけれど、実はご自分でも覚悟をしていらっしたんですよ。私、お子さん方をお連れして行く時に、お召物を出しに箪笥をあけて見ますと、お母さまのお召物に何だか妙な札がついているんです。よく見ますと、それがみんな春とか菊とか松枝とかとお嬢さん方のお名前が書いてあるんでしょう。私、腹が立ちましてね。何もそんな覚悟までして、わざわざ新潟くんだりへ手術なぞしにいらっしゃらなくてもよさそうなものだと思いましてね。私、そのことはお母さまに存分お怨みを申上げましたわ。」
お嬶はまたこんな話もした。そして、母の死は実は医者の過失なので、手術後腹が痛み出してまた切開して見たら中から糸が出て来て、大変な膿を持っていたなぞとも
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