士の下に社会学をやっていた、少し出歯ではあったが、からだの小さい、貴公子然とした好男子だった。
ある晩、学校からの帰りに、同じ生徒の高橋という輜重兵大尉が、彼に社会学というのはどんな学問かと尋ねた。
「たとえば国家というものが、またその下にあるいろんな制度がですね。どんなふうにして生れて、そしてどんなふうに発達して来たかというようなことを調べるんです。」
小野寺は得意になって、やはり佐々木と同じように少々ズウズウ弁ながら、多少演説口調で言った。
「それや面白そうですな。」
士官学校の馬術の教官で、縫糸を一本手綱にしただけで自由に馬を走らせるという馬術の名手の高橋大尉は、本当にうらやましそうに言った。
社会学というのは、またそれがどんなものかということは、これが僕には初耳だった。そして僕も、高橋大尉と一緒にこんな学問をしている小野寺をうらやましがった。そして小野寺や佐々木に頼んで、社会学の本だの、その基礎科学になる心理学の本だのを借りて、まるで分りもしないものを一生懸命になって読んだ。たぶん早稲田から出た遠藤隆吉の社会学であったか、それとも博文館から出た十時何とかいう人の社会学であったか、それともその両方であったかを読んだ。また、金子馬治の『最近心理学』という心理学史のようなものも読んだ、そしてついでに、同じ早稲田から出ている哲学の講義のようないろんなものも読んだ。
小野寺はまた僕に仏文のルボン著『民衆心理』というのは面白い本だから読めと言って勧めた。それも僕は、字引を引き引きしかもとうとう碌に分らないながらも読んでしまった。
学習院は欠員なしでだめ、暁星中学校もだめとあって、その四月に、僕はあとたった一つ残っている成城中学校へ試験を受けに行った。が、願書を出す時には外国語をフランス語として出して受けつけたのが、いよいよ試験の日になって「こんどの五年にはほかにフランス語の生徒がないから」というので無駄に帰されてしまった。
そして僕は九月まで待って、どこか英語の中学校の試験を受けなければならないはめになった。それで僕は急に英語の勉強を始めた。そしてユニオン読本の四が読めさえすればどこへでもはいれると聞いて、ほかの学科の方はよして、そのユニオンの四を近所の何とかいう英語の先生のところへ教わりに行った。もう幾年かまるで英語の本をのぞいて見なかったので、初めからユニオンの四にぶつかるのは実に無茶なことだった。しかし僕は先生のところでその講義を聞いて来ては、さらにうちへ帰って字引と独案内とを首っ引きにして、それこそ本当に一生懸命になって勉強した。そして一、二月するうちにはそのユニオンの四も大した苦にはならなくなった。
すると七月か八月の幾日かに、突然僕は「母危篤すぐ帰れ」という父の電報を受取った。
[#改頁]
自叙伝(六)
一
父の家は尾上町のすぐ近所の西ヶ輪[#底本では「西ケ輪」]という町の、練兵場の入口の家に引越していた。もと谷岡という少佐が住んでいて、僕はその息子と中学校で同級だったので、前からよく知っている家だった。谷岡は幼年学校や士官学校の試験にいつも失敗して、とうとう軍人になりそこねて、後慶応にはいって、今はどこかの新聞の経済記者になっていると聞いた。そしてその家の裏には、先年社会主義思想を抱いているというので退職された、松下芳男中尉が住んでいた。勿論まだ当時はほんの子供で僕の弟の友達だった。
玄関にはいると、僕は知っている人達や知らない人達の大勢がみんな泣きながら、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしてうろうろしているのを見た。僕は母はもう死んだのだと思った。しかもまだ今死んだばかりのところだと思った。そしてそのうろうろしている人達の一人をつかまえて、「お母さんはどこにいます」と聞いた。が、その女の人はちょっと大きく目を見はって見て、何にも答えないで、わあと声を出して泣いて、逃げるようにして行ってしまった。僕はまたもう一人の女の人をつかまえた。が、やはりまた、前と同じ目に遭った。
仕方がないので、どこか奥の方の室だろうと思いながら、まず先きの人達の逃げこんだ玄関のすぐ次の室にはいった。その室とその奥の座敷との間の襖は取りはずされて、その二つの室一ぱいに大勢の人達が坐っていた。僕がはいって行くと、みんなは泣きはらした目をやはり先きの人達と同じように大きく見はって僕の顔を見つめていたが、僕がまた「お母さんはどこにいます」と聞くと、その中の女の人達はまたわあと声をあげて泣きだした。そして誰一人僕の問いに答えてくれる人はなかった。僕は変な気持になりながら、仕方なしに、また襖をあけて玄関の奥の一室にはいった。そこは母の居室になっていたものと見えて、箪笥だの鏡台だのがならんでいるだけで、誰もいなか
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