たがってY村についての僕の注意も一時立消えになった。しかしこの問題のお蔭で、僕はY新聞のD(幸徳)やS(堺)、M(東京毎日)新聞のK(木下尚江)W大学のA(安部磯雄)などの名も知り、同時にまた新聞紙上のいろんな社会問題に興味を持つようになり、ことにDやSなどの文章に大ぶ心を引かれるようになった。そしてその翌年の春頃には、学校で「貧富の懸隔を論ず」などという論文を書いて、自分だけは一ぱしの社会改革家らしい気持になっていた。
――僕ばかりじゃない。さらにその翌年、DとSとがその非戦論のために新聞を出て一週刊新聞(平民新聞)を創めて、新しい社会主義運動を起した時、それに馳せ加わった有為の青年の大部分は、この鉱毒問題から転じて来たものか、あるいはこの問題に刺激されて社会問題に誘いこまれたものであった。
これは谷中村の鉱毒問題について書いたものの中の一断片だ。したがって、勿論その中には嘘はないのだが、多少いっさいを鉱毒問題の方へ傾けすぎた嫌いはある。それを今後は、この行を書いている最中の自由という気持の記憶の方へ、もう少し傾け直さなければならない。その方が、少なくとも今は、本当だと思うのだ。
僕はただ一番安いということだけで万朝報をとった。田舎者でしかも最近数年間は新聞を見るのを厳禁されて、世の中はただ軍隊の生活ばかりのように考えこまされていた僕は、そのほかにどんな名のどんな新聞があるのかも碌には知らなかった。その数年間の世間の出来事についても、僕が今覚えているのは、皇太子(今の天皇)[#「今の天皇」は「大正天皇」]の結婚と星亨の暗殺との二つくらいのものだ。皇太子の結婚は僕が幼年学校にはいるとすぐだった。僕等は二人が伊勢へお参りするのを停車場の構内で迎えて、二人のごく丁寧な答礼にすっかり恐縮しかつありがたがったものだ。それを思うと、これはまったくの余談ではあるが、山川均君なぞは恐ろしいほどの先輩だ。彼はすでにその頃キリスト教主義の小さな雑誌を出していて、この結婚についての何かを批評して、そして不敬罪で三年九カ月とか食っているのだ。星亨の暗殺は僕が幼年学校を出る年のことだったが、僕はそれを学校の庭で、しばらく星の家に書生をしていたという一学友から聞いただけだった。そしてそれに対してはただ、剣客伊庭某の腕の冴えに感心したくらいのものだった。星がどんな人間でどんな悪いことをしたかというようなことはまるで知らなかった。
この盲の手をほんの偶然に手引してくれたのが万朝報なのだ。僕はこの万朝報によって初めて、軍隊以外の活きたいろんな社会の生活を見せつけられた。ことにその不正不義の方面を目の前に見せつけられた。
しかしその不正不義は僕の目には、ただ世間の単なる事物として映り、単なる理論としてはいったくらいのことで、それが僕の心の奥底を沸きたたせるというほどのことはなかった。それより僕はその新聞全体の調子の自由と奔放とにむしろ驚かされた。そしてことに秋水と署名された論文のそれに驚かされた。
彼の前には、彼を妨げる、また彼の恐れる、何ものもないのだ。彼はただ彼の思うままに、本当にその名の通りの秋水のような白刃の筆を、その腕の揮うに任せてどこへでも斬りこんで行くのだ。ことにその軍国主義や軍隊に対する容赦のない攻撃は、僕にとってはまったくの驚異だった。軍人の家に生れ、軍人の間に育ち、軍人教育を受け、そして軍人生活の束縛と盲従とを呪っていた僕は、ただそれだけのことですっかり秋水の非軍国主義に魅せられてしまった。
僕は秋水の中に、僕の新しい、そしてこんどは本当の「仲間」を見出したのだ。が、たった一つ癪にさわったのは、僕が水のしたたるような刀剣を好きなところからひそかに自ら秋水と号していたのを、こんど別に秋水という有名な男のあることを知って、自分のその号を葬ってしまわなければならないことだった。
それと、もっと近くにいて僕の目をあけてくれたのは、同じ下宿のすぐそばの室にいた佐々木という男だった。彼はもう二、三年前に早稲田を出て、それ以来毎年高等文官の試験を受けては落第している、三十くらいの老学生だった。いつも薄ぎたない着物を着て、頭を坊主にして、秋田あたりのズウズウ弁で愛嬌のある大きな声をだして女中を怒鳴っていた。その顔も厳めしそうな八字髯は生やしていたが、両頬に笑くぼのある、丸々とした愛嬌面だった。友達のない僕はすぐこの老書生と話し合うようになった。彼は議論好きだった。そして僕のような子供をつかまえても議論ばかりしていた。僕も負けない気で、秋水の受売りか何かで、盛んに泡を飛ばした。
それから、この佐々木の友人で、フランス語学校で同じ高等科にいた小野寺というのと知った。これもやはり、二、三年前に早稲田を出て、その頃は研究科でたった一人で建部博
前へ
次へ
全59ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
大杉 栄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング