ぐ向いに下宿屋のあることを知っていたので、大尉の監督の下にそこへ下宿するように父に申し出てあったのだった。
若松屋というその下宿には、幸いに奥の方に、四畳半の一室があいていた。そして僕は、正月の休みの間に探し歩いた、猿楽町の東京学院へ(今はもうないようだが)、中学校五年級受験科というのにはいって、毎日そこから通うこととなった。そこでは僕は自分の学力の足りないと思った数学や物理化学に特に力を入れて勉強した。そして同時にまた、あるいは四月頃になってからだとも思うが、夜は、その頃四谷の箪笥町に開かれたフランス語学校というのに通った。これは、庄司(先年労働中尉と呼ばれたあの庄司何とか君の親爺さんだ)という陸軍教授が主となって、やはり陸軍教授の安藤(今は早稲田の教授)だの、何とかという高等学校の先生のフランス人だのが始めた学校だった。
こうして僕は、東京に着く早々、何もかも忘れて夜昼ただ夢中になって勉強していた。
が、何よりも僕は、僕にとってのこの最初の自由な生活を楽しんだ。すぐ向いには監督であり保証人である大尉がいるのだが、これはごくお人好の老人で、一度でも僕の室をのぞきに来るでもなし、訓戒らしいことを言うのでもなし、また僕の生活について何一つ聞いて見るというのでもなかった。僕はまったく自由に、ただ僕の考えだけで思うままに行動すればよかったのだ。
東京学院にはいったのも、またフランス語学校にはいったのも、僕は自分の存分一つできめた。そして大尉や父にはただ報告をしただけであった。僕が自分の生活や行動を自分一人だけで勝手にきめたのは、これが初めてであり、そしてその後もずっとこの習慣に従って行った。というよりもむしろだんだんそれを増長させて行った。
僕は幼年学校で、まだほんの子供の時の、学校の先生からも遁れ父や母の目からも遁れて、終日練兵場で遊び暮した新発田の自由な空を思った、その自由が今完全に得られたのだ。東京学院の先生は、生徒が覚えようと覚えまいとそんなことにはちっとも構わずに、ただその教えることだけを教えて行けばいいという風だった。出席しようとしまいと教授時間中にはいって行こうと出て行こうと、居眠りしていようと話していようとそんなことは先生には何の関係もないようだった。そしてフランス語学校の方では、生徒が僕のほかはみな大人だったので、先生と生徒とはまるで友達づき合いだった。一時間の間膝にちゃんと手を置いて、不動の姿勢のまま瞬き一つせずに、先生の顔をにらめている幼年学校と較べればまるで違った世界だった。
僕はただ僕自身にだけ責任を持てばよかったのだ。そして僕はこの自由を楽しみながら、僕自身への責任である勉強にだけただ夢中になっていた。
三
けれどもやがて、この自由を憧れ楽しむ気持がただ自分一人のぼんやりした本能的にだけではなく、さらにそれが理論づけられて社会的に拡張される機会が来た。ごく偶然にその機会が来た。
僕はその頃の僕の記憶の一断片について、かつて『乞食の名誉』の中の一篇「死灰の中から」の中に書いた。
――僕が十八の年の正月頃だった。(あるいはもう二、三カ月かもっとあとのことかも知れない。)まだ田舎から出たてのしかも学校の入学試験準備に夢中になって、世間のことなぞはまるで知りもせず、また考えても見ない時代だった。僕は牛込の矢来に下宿していた。ある寒い日の夕方、その下宿にいた五、六人のW(早稲田)大学の学生が、どやどやと出て行く。そとにも大勢待っているらしいがやがやする音がする。障子をあけて見ると、例の房のついた四角な帽子をかぶった二十人ばかりの学生が、てんでに大きなのぼりみたいな旗だの高張提灯だのを引っかついで、わいわい騒いでいる。
――「もう遅いぞ。駈足でもしなくっちゃ間に合うまい。」
――「ああ、しかしその方がかえっていいや。寒くはあるしそれにこの人数でお一二、お一二で走って行けば、ずいぶん人目にもつくだろう。」
――「そうだ。駈足だ! 駈足だ!」
――みんなは大きな声で掛声をかけて、元気よく飛んで行った。その時の「Y(谷中)村鉱毒問題大演説会」と筆太に書いたのぼり[#「のぼり」に傍点]の間に、やはり何か書きつけた高張りの赤い火影がゆらめいて行く光景と、みんなの姿が見えなくなってからもまだしばらく聞えて来るお一二、お一二の掛声とは、今でもまだはっきりと僕の記憶に浮んで来る。これがY村という名を初めて僕の頭に刻みつけた出来事であった。そしてそれ以来僕はその頃僕がとっていた唯一の新聞のY新聞(万朝報)に折々報道され評論されるY村事件の記事を多少注意して読むようになった。
――Y村問題はすぐに下火になった。今考えて見ると、ちょうどその頃がこの問題について世間が大騒ぎした最後の時であったのだ。し
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